(1) |
単元設定について
小学校では,□,○を用いて数量の間の関係を表したり,それにあてはめる値を調べたりしている。そのような学習の過程で,簡単な式について,□にあてはまる値を求めることを経験している。しかし,そこではいわゆる逆算によって求めているので,等式という意識は弱い。ここでは,方程式を等式と見て,等式の性質を用いて解くことがねらいである。「正負の数」や「文字と式」の章と同様,生徒にとって中学校ではじめて系統的に学習する内容である。
等式の性質を用いた解法から,移項という見方に発展させることにより,方程式が一定の手順によって解けるよさを感じさせる。いわゆる文章題もその中の数量の間の関係を方程式におきかえれば,それを解くことによって解決できる。そのよさを感得させて,方程式を活用していく態度を育てたい。
この章では,小学校との関連を図るとともに,中学校で学習した「正負の数」や「文字と式」との関連に配慮して,新しい内容の「方程式」を扱うこととなる。そのために,特に次のことを意識して指導にあたりたい。
1) |
方程式を解くことを通して,「等式の性質」という基礎・基本にあたる内容を定着させ,その有用性を理解する。 |
2) |
文章題を通して,方程式の有用性を知らせ,方程式を用いることができるようにする。 |
前章で学んだ「文字と式」が方程式の理解には不可欠である。文字式の定着を図り,時には授業内で確認していくことも必要である。文章題に関しては,題材が身近で親しみやすく,解いてみたいと感じる,あるいは,方程式を使う必要性を感じるものを扱いたい。文章の理解力や計算力などの習熟度を考慮し,中学3年間,特に2年の「連立方程式」や3年の「2次方程式」まで見通して計画的に指導し,方程式の有効性を理解させていく必要がある。
|
(2) |
生徒観
子どもは,生来好奇心旺盛である。自らの問いの連続により,その資質の伸長を自らの力で営んでいけたら,理想の人間へと成長するに違いない。ところが,この状態はあくまで理想であり,現実はさまざまな原因により主体的な学習ができない状況にある。ここに,目の前の子どもに対し教育をする価値がある。自分の受け持っている子どもも例外ではない。教師の指示や解説をひたすら待ち続ける完全受け身型学習人間,ノートの取り方がまるっきりいい加減で黙ってはいるがまったく思考が働かない無気力学習型人間,数学の学習は計算問題だけできればそれでOKだと思っている勘違い学習型人間,問題解決能力抜群であっても授業の練り上げ段階で他者との交流を全く無駄な行為だと思い拒絶する取り違え学習型人間など,現実の教育現場は厳しい状況の一言である。
こういった現実に対し,筆者が必ず心掛けていることは,「この先生の言うこと,もっと大げさに言うと松川の言うことは一挙手一頭足どんなことでも注目させる」意識を一瞬たりとも忘れずにいることである。私が授業を営んでいてもっともいやと思う瞬間は,自分に注目をしていない子どもを認知したときである。「今の自分に何ができるのか?」些細な子どもの情報に基づき,その時にベストと思われる生徒指導を施すことにしている。「教材がどうであるとか,指導の方法はこうあるべきだとか」以前のいわゆる生徒指導上重要なことをクラスの個々の生徒達の間に,充分に染み込ませるためである。
生徒指導上重要なこと(授業規律といってもいいかもしれない)が生徒達の間に染み込めば,そこに授業を運営するために必要なさらなる指導技術が要求される。その指導技術をうんぬんする前に,教師が認識しておかなければならない重要なことがある。それは,個々の子ども達は問題に直面したときに,必ずその子固有,つまりその子なりの理屈を持つことである。例えば,「√2+√3=√5と主張する子ども」「2枚の硬貨を投げたときの表と裏がそれぞれ1枚ずつ出る確率は? の問いに対し,起こりうる場合の数は,(表, 表)(裏, 裏)(表, 裏)の3通りだから,求める確率は1/3と主張する子ども」「正方形は平行四辺形ではないと主張する子ども」がクラスの中には必ずいる。
|
(3) |
教材観
方程式のよさは,「事象の中の数量間の関係を文字で表し,等式の性質を使い,方程式を解くことにより,事象を数理的に解決できる」ことにある。方程式指導において,このよさを感得させるための適切教材の選定が重要課題である。とりわけ,事象の中の数量間の関係を文字で表す活動を営ませるためには,数量間の関係が単純な具体的数値の試行で解決に到ってしまう教材では無理がある。例えば,左のてんびんに1gの分銅と●が2つ乗り,右のてんびんに9gの分銅が乗っている教科書のてんびんの例では,●が4gとすぐにわかってしまう。わざわざ,2 x +1=9の式を導入するまでもない。「何のための,方程式導入なのか」となりかねない。そこで,下記のような課題を考えてみた。
|
|
|
|
【課題】
太郎君は,「いっぱいたまると10万円」貯金箱に500円玉だけを入れて貯金をはじめました。
「いっぱいたまると10万円」貯金箱に,本当に10万円分の500円玉が入るのかと疑問に思ったからです。ところが,弟の拓也君が,太郎君の机にあった1円玉をいくつか入れてしまいました。太郎君が弟の拓也君に,「1円玉をいくつ入れたんだい?」と聞いたところ,「わかんない?」という答えが返ってきました。
もともと好奇心が強い太郎君は,しばらく考え込み,あることをした後に,「拓也,おまえは1円玉を貯金箱に●個入れたね」と言いました。説明を聞いた拓也君は,「兄ちゃんすごい!」と,納得しました。さて,太郎君は,どんな方法で貯金箱に入った1円玉の枚数をつきとめたのでしょうか。ただし,太郎君は貯金箱を缶切で開け,中を調べることはしていません。 |
|
|
|
|
|
この課題は,解決するためには条件が不備である。500円玉1個の重さ,1円玉1個の重さ,貯金箱の重さ,お金が入っている貯金箱の総重量それぞれの数値が不明である。以上の数値は,実際に計量器を使用し,測定が可能であり,課題解決のための情報を収集する場が与えられることになる(今回の指導では,使用可能な計量器が1台なので,演示的に計量する)。収集した情報(500円玉1枚の重さは7g,1円玉1枚の重さは1g,空の貯金箱の重さは65g,2種類の硬貨が入った貯金箱の重さは80g)をもとに,7 x + y +65=80を立式することができる。
この立式は,まさに子ども達の数学的活動の賜と言えそうである。立式した子どもにとっては,必然的な活動として, x と y の文字に具体的な数値をあてはめ,解の候補となる3つの( x , y )=(0,15)(1,8)(2,1)を見つけ出すであろう。ここで,行き詰まってしまうであろうが,問題文の中に「・・・・・・貯金をはじめました・・・・・・」という文があるので,( x , y )=(0,15)は解からはずすことができる。ここで解の候補は,( x , y )=(1,8)(2,1)の2つに絞られたことになる。さらに追求していくと,( x , y )の決定は,硬貨の枚数であることに気づく生徒が出現し,貯金箱を振る操作などによって枚数の推測が可能であるという結論にたどり着くであろう( x と y の値を一組に決定するには, x と y に関する条件式がもうひとつ必要であることを認識する活動を,2年生の連立方程式の単元で行うことである。貯金箱を振り,中に入っている硬貨の枚数を操作によって推測する活動は,連立方程式の単元へとつながっていく連結指導との位置付けもできる)。
7 x + y +50=65を立式できないまでも,7×(500円玉の個数)+1×(1円玉の個数)+65=80の式を立てるところまで可能な生徒もいる。また,ことばの式にしないまでも,7×1+1×8+65=80の計算によって,( x , y )=(1,8)を求めている生徒もいるであろう。これらの一連の活動こそが,「事象の中の数量間の関係を文字で表し,等式の性質を使い方程式を解くことにより,事象を数理的に解決できる活動」であり,方程式のよさの感得を可能とする教材と言えそうである。
|
(4) |
指導観
評価と指導とは別物ではない。評価の結果によって後の指導を改善し,さらに新しい指導の成果を再度評価するという,指導に生かす評価を充実させることが重要である。つまり,「指導と評価の一体化」である。この言葉は,研究会等で非常によく使われるが,「授業中で評価したことをその授業中の指導で生かす場合」(以下,評価[1]とする)と「単元末テストなどで期間をおいて評価したことを指導に生かす場合」(以下,評価[2]とする)が考えられる。評価[1]および評価[2]について,例えば次のような場面を想定してみることにする。
|
|
|
|
【課題】
下に示した数は三角数と呼ばれている。50番目の三角数はいくつか。
|
|
|
|
|
|
この課題に対し,「5番目の三角数が15だから,50番目はその10倍で15×10=150になっている」と解答した生徒がいた場合,教師は当然評価[1]をし,そのための指導をする。その指導の結果,その生徒が授業時間内に正答に行き着いたとき,評価[1]は完結したことになる。ところが単元末テストで,次のような課題を出したところ,
|
|
|
|
【課題】
下のようなパターンがある。30番目までの奇数の和はどうなるか。
|
|
|
|
|
|
同じ生徒が,「3番目までの奇数の和が9だから,30番目はその10倍で9×10=90になる」と解答した場合,教師はまた当然評価[2]をし,そのための指導をする。その指導の結果,その生徒がまたしても正答に行き着いたとき,評価[2]は完結したことになる。この指導では,同じ構造をもった課題の解決を試みた生徒に対し2回の指導を試みたわけであるが,その指導の適切性をどう考えればよいのだろうか。評価[1]で指導したにもかかわらず,生徒は同じ誤りを次の課題でもしたわけであるので,指導が適切ではなかったと考えるのが妥当である。この教師は,誤りの主張をした生徒の発言をどのように受け止めたのであろうか。実は,受け止めたのではなく,ただ話を聞き教師が用意した正答および考え方をその生徒に押しつけただけなのかもしれない。「評価」とは,生徒のあらゆる表現から,解決活動の事実をつかむことであり,このことを再認識し,指導につなげていかなければならない。このような面からの評価研究は,われわれ現場教員でなければできない研究であり,今後このような研究を高めていきたい。
次に,「数学に関する関心・意欲・態度の『評価』をどのように扱っていくか」の課題がある。この観点により生徒をとらえることの困難性が問題となっている。例えば,「a x +b=c x +d型の1次方程式を解くことができる」や「垂直二等分線の作図をコンパスと定規で作図することができる」などの評価については,目標に準拠した評価として非常にとらえやすい内容である。生徒の活動そのものを客観的に評価しやすいからである。ところが,問題解決途上における「関心・意欲・態度」および「数学的な考え方」の観点はとても重要視されていながら,それらの観点の評価[1]を実際どのように行い,そしてどのように指導に生かすかに関する研究は,確立されているとは言い難い。
|