「授業が思うようにうまくいかない。」
毎日子どもと接し,学習指導に精魂を傾けて励んでいても,このような反省を経験しない教師はいないであろう。授業は何度やっても満足することはできない。それどころか,次から次へと疑問が生じてくる。まるで生きものでもあるかのように,新しい方策を生み出しては,またそれを修正していく必要に迫られる。そして,その修正に迫られるたびに,「授業はむずかしい。」と痛感する。そして同時に,「授業は生きている。」という感慨を新たにする。
授業とは,学問・技芸などを媒介として,教える者(教師)と教えられる者(学習者)とが同時に関与し合っている営みであるといってもよい。授業の実際の場では,教師から表出される情報と,学習者から表出される情報とが交錯し,それぞれの情報が対応しながら,緊張関係を維持している。そしてその緊張関係を,教師と学習者とで作り上げていくところに特質がある。いうまでもなく,教師の診断活動から生じる治療作用をもった情報によって修正される。
授業過程では,学習者にとっても,教師にとっても,予想できない事態が生起し,予想外の反応が新しい事態へと授業を展開させていくことがある。これは,偶発的な要素が授業に内在するからである。偶発的な要素は,教材研究を深め,子どもの認識の実態を極めることによって,範囲が狭小になっていく。偶発的な要素の源泉は,教材自身の文化性と子どもの可能性に根ざしたものであることを自覚して,教材研究と子どもを知っていく努力を重ねることが大切である。
しかし,いかに目標を明確にしても,偶発的要素は消失しない。偶発的要素の中で,価値あるものとそうでないものとを何によって判断するのか。授業が,ある教育的価値の実現を目途として営まれる目標追求の活動であることに着目すれば,判断の基準を求めることができる。予想できない事態とか予想されない反応といっても,目標追求という価値基準に照らして判断し,調整しなければ授業でなくなってしまう。
「授業は生きている。」という主張や考え方が,目標や指導計画は曖昧であってもよいとする議論に発展しがちであるが,それは授業の目標や指導計画と授業過程の混同である。
「授業は生きている」のではなく「生かしている」のである。授業過程で,偶発的な事態を取り上げ,目標に照らして調整できるのは,教師が入念な指導計画を立案しているからであり,入念な指導計画なくしては,心にゆとりを持って学習者の不測の反応をとりあげることができるものではない。指導計画を背後にもち,心にゆとりを持って不測の反応や教師の枠を超えた発想を目標に照らして判断し,新事態への展開を決断して,目標追求への活動を続けていく。このような状況を「授業は生きている」と呼ぶのであり,教師の「生かす」努力が払われていることを忘れてはならない。
「教師は授業で勝負をする。」といわれるように,教師にとって授業は自己の専門職を発揮する最高の場である。授業そのものは,きわめて実践的で現実的な営みであるが,授業の前には,事前準備として教材研究や子どもの実態把握,展開過程の設計などが必要である。また,授業の後では,指導の計画とのずれを,どのように調整していくかを考えなければならない。このように,授業は,それを実行する前の準備と,実行後の処置に不可分に結びついている。これは,実践からみた授業の特質といえる。この事前の準備・授業の実行・事後の処置の一連の過程を授業実践と呼んでいる。教材研究の深さと幅,子どもの実態の分析と把握,それらを基礎にした展開過程の設計,これらの作業が事前準備の内容である。この事前準備は,多くの場合「学習指導案」として作成され,文書化される。
予期しない反応や予測し得ない事態が生じても,教材を深く解釈し,かつ徹底的に子どもの実態を分析した教師は,心にゆとりを持って対処し,仮説を修正することができるはずである。つまり,詳しい学習指導案を作成することにより,安心して脱線できる授業に変えていくことが可能になる。詳しい学習指導案は,「生きた授業」にするための安全弁になっているともいえる。
つまり,授業計画は授業の「仮説」であって,授業を通じて「検証」され,「修正」されることを予定されている。このように,授業計画としての学習指導案は,まず仮説としての役割をになっている。学習指導案に展開過程の一挙手一投足までを記載することは不可能であり,その必要性は認めがたいが,可能な限度で詳細に記載することが大切である。詳細な学習指導案を作成するためには,教材・子ども・学習理論に習熟していかなければならない。そのためには,教師自身が不断の自己研修を重ねなければならない。学習指導案作りを通じて,教職の専門性を磨きあげ,自己を成長させていくことができる。
また,詳細な学習指導案は,作成者以外の教師にとっても,有効な利用が可能である。他人の作成した指導案であっても,それが一定の書式でもって,詳細にかつ具体的に記述されていれば,作成者の教材観や指導観だけでなく,指導展開の過程を客観的・具体的に看取できる。自分に摂取する能力さえ具備していれば,それを自分の授業に位置づけて,容易に書き直し,新しい学習指導案を短時間に作りあげることができる。
直接に学習者の学習活動をどう組織化し発展させるように誘発していくか,その手がかりを記すのは,主題または題材についての指導展開の部分である。その主題の学習指導の展開を中心に記述した指導計画を学習指導案と呼んでいる。
一般に学習指導案は,単元計画の部分と本時の主題についての学習指導部分(本時の学習指導の計画部分だけでできている指導案を指導略案と呼んでいる。)とで構成されている。本時の主題の展開では,学習者が自分の認識の対象として,主体的に取り組み,あるまとまった学習経験が形成されるような工夫が必要である。1つの主題の指導は,できれば1単位時間で終了することが望ましいが,主題の性格や内容によっては,2~3時間連続する場合もある。1単位時間では得られないような主題の場合は,「本次」として2~3時間の学習指導案を立案する必要がある。
指導案の立案にあたっては,次のようなことを明らかにする必要がある。
今回の提案は,単元全体の計画部分については深入りせず,本時の学習指導の計画部分,特に,本時のねらいに記してもらいたい指導目標と行動目標について述べることにする。
単元は,学習者によって受け入れられ,1つの完結した学習経験として学習者に認識されるような教育内容で構成されなければならないが,それは,直接に学習活動を誘発したり,具体的な手がかりを学習者に与えるものではない。学習者が直接自分の認識の対象として主体的に取り組むのは,1時限を単位とした授業である。その1時限の授業を構成している教育内容のまとまりに対してである。この1時限を単位とする学習経験のまとまった教育内容を主題と呼んでいる。したがって,単元そのものは直接的には実際の授業での認識の対象にはならないが,主題は直接に実際の授業での認識の対象になる細分化された教育内容である。
実際に教育課程や年間指導計画が現実に学習者の認識としてとらえられるのは,この主題のレベルである。主題の設定にあたっては,単に教科書の節名や小見出しをそのまま引用するのではなく,教材の論理的発展性と学習経験のまとまりの単位との両方を十分に考慮し,さらに地域や学習者の実態も把握して,教師が主体的に決めることが大切である。
主題を設定するときには,まず単元全体の指導目標とその内容を全体的に把握し,これに基づいて,教師自らが,主題の意味を生かしていくように指導内容を組み替える努力をする必要がある。
この主題についての新しい学習経験を形成させていくのが,本時の指導のねらいである。この本時の指導のねらいを「主題の目標」という。この主題の目標は,学習指導案にあって,欠くことのできない重要な要素である。特に,この目標を指導目標としてとらえるだけでなく,あとで述べるように行動目標としてとらえた目標を記述する必要がある。つまり,主題についての指導目標と行動目標の両方を明記することにより,目標の明確化を図っていかなければならないと考える。
主題の指導目標は,単元全体の目標に包括され,それから導きだされるものである。したがって,単元目標と比べると目標の範囲も狭小になり具体的である。単元の目標は,実際の授業の場で,教師が児童・生徒に対して,どんなことを「知らせ」,何を「考えさせ」,どんなことを「理解させるのか」を具体的に明らかにしたものである。場合によっては,ある事象を「気づかせる」ことや「身に着けさせる」こともあり,望ましい習慣を「養う」ことや「身に着けさせる」ことを授業のねらいとし,その指導目標を具体的に明らかにすることもある。
指導目標は,教師(指導者)が児童・生徒(学習者)に対して働きかける意図の内容を授業レベルで表現したものである。指導目標の記述にあたっては,まず,その指導の方向性を明らかにし,ついで,その方向づけのために必要な手がかりや方法と,その内容を関連付けて文章化することが大切である。つまり,方向目標にすることが必要である。指導目標に示された方向性は,その指導時間中,教師の脳裏にあって,指導姿勢の源泉となり,教授活動における言動や挙動へ強力に反映してくる。
算数の例で考えてみる。
「拡大図と縮図について,角の大きさと辺の長さの関係を理解させる。」
上の指導目標は,方向目標として十分なのかという点である。人によって意見が分かれるかもしれないが,私は不十分だと考える。角と辺の関係の理解を通じて,もっと大切な指導の方向を設定したいものである。
私なりに上の指導目標を書き改めてみると,次のようになる。
「拡大図と縮図について,もとの図との間の対応する角の大きさは,それぞれ等しく,対応する辺の長さの割合が等しい関係にあることを理解させ,図形の性質についての関心を高めさせる。」
このような方向目標をもつか,それとも上の例にあげた目標に留まっているかによって,その指導時間における教師の活動の様相に変化が生じてくると考える。
指導目標には,知的な理解や知識の習得にかかわるものだけでなく,思考や見方・考え方についても考えておくべきである。また,技能や態度も大切な目標であるし,形成させたい心情なども重視するように留意したい。
主題の指導目標は,単元目標を具体化し,具体的な授業レベルでの目標を明らかにしたものであるが,それは教師が主題の学習指導を通じて,児童・生徒に習得してほしい方向の内容を,目標として表現したものである。このため,児童・生徒たちを「こう育てたい」という意図やねらいが内面的なものになりがちであり,形成してほしい意識や心の変化を中心に記述することになる。
そこで,目標を学習者の内面的な意識や心の変化の記述だけでなく,意識や心の変化を外面からとらえ,第三者からみても変化の様子がとらえられるようにしようとするのが行動目標である。つまり,指導目標と同じように,直接学習者の意識の対象となる授業レベルでの目標ではあるが,それを学習者が取得し,「理解したり」「考えたり」「能力をつけたり」したら,実際にどんな形で「述べたり」「書けたり」「やったり」できるようになるのか,外面に表れてくる行動によって目標を表そうとするのが行動目標である。
したがって,目標の次元からみると単元目標に構造的に包括され,そこから導き出されるものであるが,指導目標が内面的な記述であるのに対して,行動目標は外面的な記述であるところに大きな差異がある。
指導目標は,実際の授業で,教師が学習者にどのような「教育的意図」をもって働きかけていくか,その教育的意図をねらいの形で明示したものである。
そこで,指導しようとしている教育的な意図の方向や内面的変化の中身によって,表現方法がどのように異なってくるか明らかにしたい。
まず第1に,学習指導の意図が,知識の習得や知的な理解にある場合には,
「~を知らせる。」
「~に気づかせる。」
「~を身につけさせる。」
「~を理解させる。」
などの表現を用いて記述することになる。
次に,学習指導の意図が,思考や着想・着眼などに重点のある場合は,
「~について考えさせる。」
「~の考えを深めさせる。」
「~に着目させる。」
「~の推論を立てさせる。」
などの表現を用いることになる。
さらに,心情・態度や技能などに指導意図がある場合は,
「~を豊かにさせる。」
「~を感じとらせる。」
「~に関心をもたせる。」
「~の自覚を深めさせる。」
「~を育てる。」
「~を身に付けさせる。」
などの表現で記述することになる。
実際の学習指導では,知識と思考を結び付けたり,思考と態度を結び付けて指導目標とするなど,いくつかの意図を複合させるのが普通である。しかし,大切なことは,いずれの場合であっても,学習指導の教育的な意図を明確に表現しておくことである。そのためには,指導の意図の内面的な方向をしっかりと把握して,その内容も含めて記述するように注意することが大切である。
指導目標の第1の特質は,
①教師の立場に立って,
②教師の働きかけの「指導意図」を明示したもの
である。
児童・生徒が「~の内容を知った。」といっても,その深さや程度はよくわからないし,また,「意義を考えた。」といっても,どんな心の動きや変化が生じたのか,本人以外は,その具体的な状態がよくわからない。その状態については,人によって解釈が違ってくるだろうし,だれでもが共通にとらえられるような表現にはなっていない。それは,前にも述べたように,指導目標の性格からして当然なのである。つまり,指導目標に示された方向性が,教授活動における教師の言動や挙動に作用し,教師の指導姿勢の裏付けになるものだからである。したがって,記述自体が「知らせる」とか「考えさせる」あるいは「理解させる」というように,内的な心の作用や意識の変化を包括的に表すようになり,ある程度の抽象性はいたしかたないし,また,方向性を明示することからすると,むしろ望ましいということもできる。
指導目標の第2の特質は,
①内的な心の作用や意識の変化を表す。
②そのため,包括的で,抽象的になる。
指導目標の記述にあたっては,両方の特質が十分に生かされるような表現にすることが大切である。
行動目標は,学習者が実際にどんなことができるようになるのか,外面的に表れてくる行動を内容としているが,その行動は,目標に到達したときに可能になるものをさしている。つまり,行動目標というのは「目標となる行動」のことで,「1つの主題を学習後にできるようになると期待されている行動」を意味しており,その到達点での行動を示しているので到達目標とも呼ばれる。あるいは成就目標とか操作目標とも呼ばれ,方向目標と対置して用いられている。
行動目標を設定するに際しては,まず,指導目標の方向性を十分に把握し,学習者の意識や心などの内観にどんな変容が生じることを期待しているのかを分析してみる。そして,学習者の内観に変容が生じたと仮定し,その仮定を判定するには,学習者のどんな説明や記述あるいは動作や行為によって行うことが必要か考えてみる。
「こういう説明ができれば,こういうことを理解している。」とか,「これが解ければ,この文章題の意味を理解している。」とか,「こういうことの指摘ができれば,この音楽のよさを鑑賞することができている。」のように。外面的な行動と内面的な内観とを結びつけて,その関連を想定してみる。
外面的な行動と内面的な内観との結びつきができたら,それを学習者の最終的な到達目標になるように記述する。その場合,単に最終的な行動だけでなく,どんな方法や条件を用いて最終的な行動ができればよいのか,内容的な記述を脱落させないことが大切である。
教師が教育的な意図をもって学習者に働きかけ,その結果,学習者がその意図を掌握し,自分のものとして消化していくことができれば「学習が成立した」ことになる。ところが,指導の意図を掌握したといっても,それは心の中の動きや意識の変化であって,その内的な変化の様子は,外部者からは直接知ることができない。どのようにすれば,内的な心の作用に変化があったかを,第三者が知ることができるのか。すべてを知ることはできないかもしれないが,内的な心の変化の様子を「書かせる」とか,「いわせる」とか,「やらせる」などの外的な反応で表現させてみるとはっきりする。指導意図が学習者にどのように掌握されたかは,学習者に外的な反応をさせることによって判断するよりほかにいたしかたがないのである。「外的な反応をさせることによって判断するよりほかにいたしかたがない。」というと,消極的な立場のように受け取られるかもしれないが,人間(教師)が人間(学習者)をとらえていく姿勢としては,科学的な立場であると考える。
このように,行動目標は科学的な立場から目標をとらえようとしている。つまり,学習者が指導意図を掌握したりすると,それを外的に反応できる状態を想定し,その外的な反応,つまり行動を目標の言葉で記述しようとしている。行動目標という言葉は,「最終的に到達する行動(terminal behavior)」の意味である。学習者が,いくつかの学習を積み重ねていってたどりつくと考えられる最終の行動のことである。
ある主題についての学習指導が行われれば,児童・生徒は,どんなことが「いえたり(説明できたり)」「指摘できたり」「書けたり」「解けたり」「実験できたり」するようになるのか,それを目標の形で記述しようとするのが行動目標である。
行動目標は学習者である児童・生徒の到達目標であり,成就目標である。したがって,その主体は学習者である。指導目標は,指導意図を教師の立場から明示したが,行動目標は,学習を重ねていくことにより,到達することを期待されている学習者の目標を明らかにしている。指導目標は方向目標で,行動目標は到達目標を表しているといって相違点を示しているが,大切なことは,記述の主体者の立場がまったく異なっていることを見落とさないことである。
家庭科の例をあげる。
指導目標:おいしいご飯の炊き方について考えさせ,その手順・方法をわからせる。
行動目標:おいしいご飯を炊く条件を,洗う・水の量・吸水時間・加熱・むらすの5つの手順に分けて,各段階別に説明できる。
指導目標の第1の特質は,「教師の立場に立った,教師の働きかけの指導意図の明示」であったが,これに対して,行動目標の第1の特質をまとめると,下記のようになる。
行動目標の第1の特質は,
①学習者に主体をおいて,
②学習者の「到達目標」を明確にしたもの
である。
この第1の特質の教育的意味は,次のようなところにある。
教師が,どんなに教育的な意図をもって学習者に働きかけていっても,その目標が学習者によって達成されなければ,学習指導の目標としては意味がない。つまり,その目標が学習者によって達成されて,はじめて目標としての意味をもつと考えるからである。
行動目標は学習者の到達目標であるが,実際に到達したかどうかを,外部から観察でき客観的に判断できるような記述でなければならない。学習者が到達したかどうかの判断が,人によってまちまちであったら到達目標の意味が薄れてしまう。そこで,行動目標の設定にあたっては,到達目標の内容を外部の第三者が観察でき,かつ,その解釈について疑義が生じないような記述にすることが必要である。
家庭科の例で考えてみる。
「生野菜に含まれるビタミンCに着目し,栄養のある野菜サラダの作り方を知ることができる。」
上の目標は,目標に到達したかどうかについて,疑義が生じないような記述になっているか。答えは「ノー」である。学習者たちが栄養のある野菜サラダの作り方を「知った」状態の記述が不明瞭である。児童・生徒が,実際にどんなことがいえたり,またどんなことができれば知ったことになるのか,その状態については,人によって解釈が違うだろうし目標に到達したかどうかについても疑義の生じる可能性が潜んでいる。では,上の目標をどのように書き改めればよいだろうか。
「野菜サラダは,食べる直前に素早く調理する必要があることを,実験で得た資料をもとに,ビタミンCとの関連で述べることができる。」
目標と比較して,一番大きな違いは,「知ることができる。」のかわりに「~で述べることができる。」という形で記述しているところである。目標に達したかどうか,外部から観察して判断できるようにし,かつ疑義が生じないようにするには,「~を述べることができる。」や「~を説明することができる。」のように,意思を外に表明するときに記述する「行動のことば」で表現する必要がある。
では,行動のことばには,どんな表現方法があるか調べてみる。
まず,「記述」を中心にした行動のことばがある。
「~がいえる。」
「~が説明できる。」
「~の相違(共通点)があげられる。」
「~を暗唱できる。」
「~を指摘できる。」
これらの行動については,「聞く」か「読む」ことによって,行動目標に達したかどうかを判断することができる。
次に考えられるのは,「動作や行動」を中心にした行動のことばである。
「~をはかることができる。」
「~を作ることができる。」
「~を描くことができる。」
「~を操作することができる。」
「~をすることができる。」
これらは,実際に観察が可能であり,「できた」かどうかを一義的に判断することできる。
さらに考えられるのは,「読む」ことによって行動目標に到達したかどうかを判断できる行動のことばである。
「~を書くことができる。」
「~の表を完成できる。」
「~を解くことができる。」
「~の立式ができる。」
これらの行動のことばを,前に列挙した指導意図を表現したことばと,ぜひ比較してほしい。では,次のような表現は行動のことばといえるか考えてみたい。
算数「四角形の角の大きさの和」の例をとりあげる。
指導目標:四角形の4つの角の大きさの和を,さまざまな方法で調べさせることによって理解させる。
行動目標:四角形の4つの角の大きさの和を,さまざまな方法で調べることによって理解できる。
指導目標との違いは,「調べさせる」→「調べる」,「理解させる」→「理解できる」の2カ所だけである。「理解した」としたら,どんなことができるようになればよいのか,また,「調べる」としたら,どのような方法で調べるのかそれを行動のことばで表すのでなければならない。「させる」を「できる」に置換すれば行動のことばになるのではなく,理解する内容そのものを外的な表現にしなければならない。これらを行動目標で記述するためには,児童・生徒は何ができるようにならなければならないのか,はっきりさせる必要がある。つまり,四角形の角の大きさの和の性質を理解したとは児童・生徒のどういう状態のことなのか,それを外的な行動のことばで記述する必要がある。そこで,次のように考えてみた。
「四角形の4つの角の大きさの和が360°になることを,四角形を三角形に分割する方法を工夫し,三角形の内角の和が180°になることを用いて式に表して求めることができる。」
行動目標は,内心や意識よりも,むしろ外に表れた行動を重視し,学習者の外的な行動の状態を中心に記述する。このため,指導目標におけるような抽象性は薄れ,具体性が強くなってくる。
行動目標の第2の特質は,
①外部に表現できる「行動のことば」で表す。
②このため限定的で,具体性が増す。
「目標と評価は表裏一体である。」といわれる。行動目標と評価とはどのような関係にあるのか明らかにしておきたい。指導目標から評価を導き出すには,その間に相当に開きがあり,種々の解釈が必要であるといわれる。
社会科「歴史」の例で考えてみる。
「聖徳太子の政治理想や政策の内容を知らせ,その意義を当時(6世紀から7世紀)の国の内外の事情を背景にして考えさせる。」
上の指導目標から,何が評価規準で,評価内容は何かを容易に導き出すことができるだろうか。容易に求められる読者もいるかもしれないが,一般には,児童・生徒が,政策や内容を「知った」かどうか,また意義を「考えた」かどうか,それを引き出すための質問(評価問題)は,この指導目標からは作りがたいのではないだろうか。この指導目標を,次のような行動目標で表してみたらどうだろうか。
「聖徳太子の政治理想は,皇室を中心にした中央集権国家の樹立にあったことを,3つの政策のねらいと当時の国の内外の政治的な背景とを結びつけて説明できる。」
聖徳太子の政治思想は,皇室を中心にした中央集権国家の樹立にあったと,児童・生徒がいえるかどうかが評価内容である。その際,3つの政策(例えば,冠位十二階の制定・十七条の憲法の制定・遣隋使の派遣)や国内の動き,それに大陸の動きなどと,どの程度結びつけて説明できるかが評価の基準となる。指導目標からは,容易に評価を導き出すことはできないが,行動目標からは比較的容易に導き出していくことができる。
目標が,従来のような指導目標だけに留まっているならば,いわゆる「目標と評価の一体化」は望むべくして,その実現は程遠いといっても過言ではないだろう。
もう1つ,算数の例で考えてみることにする。
主題「正方形の1辺と面積との対応関係」で,指導目標を次のように設定した。
「正方形の1辺の変わり方とその面積の変化の様子は,一定の関係があることに気づかせ,その決まりを理解させる。」
この行動目標はどんな記述になるだろうか。評価規準になるようにするためには,どんな方法や手段を用いて,説明できるようになればよいかを考える必要がある。
行動目標は,次のように表すことができる。
「正方形の1辺の長さを,2倍,3倍・・・n倍にしていくと,その面積は4倍,9倍,・・・n✕n倍に変化していくことを表にまとめることで,面積は(1辺の倍数)✕(1辺の倍数)になっていると説明できる。」
表にするという方法を評価規準の中に含ませて,評価内容を導きやすくしていることに注目する必要がある。
指導目標は,評価規準としては不明瞭であったが,「行動目標は行動規準そのものである」ということができる。
行動目標の第3の特質は,
①そのまま評価規準になる。
である。
この第3の特質は,「目標と評価の一体化」という教育学の研究課題の研究方法に,新しい視点を与えている。
目標の中には行動化できないものがあるのではないか,いつも行動化した行動目標で書かなければならないのか,また,行動化して表現すると,知的な内容になってしまって,発見学習や探検学習には適合しないのではないか,などの問題を取り上げて検討してみる。
まず,行動化できない目標があるのではないか,の議論を検討してみる。
例えば,次のような考え方がある。
ア.算数や理科のように,知的で論理的な教科は行動化できるが,音楽・美術や国語では,論理的というよりは,内的な心情の形成であるから,行動には表せない。
イ.どんな教科であろうと,心情の形成をねらいにしている。しかし,行動目標は指導目標の外的な反応をそのまま記述したものだから,指導目標が設定できれば,行動目標に直していくことができる。
アの意見は,初めから音楽・美術や国語は「非論理教科」であって,「心情の形成教科」ときめつけ,その「心情の形成」の中身の追求を怠っているように思える。一方イは,指導目標をそのまま外的な反応に書き改めたものととらえているところに問題がある。もし,そのまま書き改めたものであって,同じ内容ならば,どちらか一方の掲載で十分だということになる。つまり,行動に表せないという消極性は許せないが,書き改めたものという安易性も危険である。
確かに,音楽・芸術や国語などは,算数・理科や社会などに比べて,児童・生徒の中に形成してほしい心の変化や意識・思考の中身が複雑であり,内面で留めておくべき性格のものが多い。しかし,学習指導は教育の一環であって,意図的な営みである。心の変化や意識の変容はとらえられないからといって,児童・生徒に自由勝手な目標のない学習をさせておくわけにはいかない。学習指導にあたっては,児童・生徒が教師のねらいとするところをとらえているかどうか,つまり心の変化や意識に変容があったかどうかを絶えずつかんでいかなければならない。そのためにはどうしても,児童・生徒に何らかの形で外面化,つまり行動化させなければならない。外面化,つまり,行動化という過程なくしては,学習指導は成立しないといってよい。心情の形成を外面化させながら,それに対して意図的な指導を加えていくところに学習指導が成立する。したがって,学習指導が行われる場面では,その目標を外面化して表せないことはないといえる。
とはいえ,外面化してみることに慣れないうちは困難が伴う。そこで,「この1時間が終わったら,何を評価のポイントにしようか。」と考えてみる。例えば,学習者が,どのように演奏できたり,歌えたり,書けたらよいか,どんな点を指摘して鑑賞してくれたらよいだろうか,と考えてみる。そして,模範と考えられる解答を作ってみる。これを目標の形で記述すれば,行動目標になるはずである。はずといったのは,記述にあたって,3つの特質を配慮しなければならないからである。
音楽の例で考えてみる。
題材は「箏と尺八」,主題は「日本の音楽のよさ」である。
指導目標は,
「箏や尺八の音楽と西洋音楽を聞き比べ,日本の音楽には,『拍節的でないリズム』や『微妙な音程』があることを味わわせ,そのよさを感じとらせる。」
この指導目標で,最終的に児童・生徒に求めているものは何か。鑑賞の場合には,鑑賞による児童・生徒の価値判断そのものを,学習目標と一致させる必要はない。教師が設定する目標は,鑑賞による児童・生徒の価値の内容についてではなく,児童・生徒が価値判断する基準でなければならない。この混同が,しばしば行動目標設定に際して生起し,鑑賞の行動目標は設定できないという議論に発展している。
日本の音楽が優れているかどうかは,各自の価値判断に委ねるべき性格のものであって,その内容を目標にするのは行き過ぎである。児童・生徒は,日本の音楽の「よさ」とされている特質があげられ,その視点で,箏や尺八の鑑賞ができればよいのである。
そこで,これを行動目標に表すと,次のようになる。
「箏や尺八には,西洋音楽にはない特質があることを,『拍節的でないリズム』や『微妙な音程』などをあげて説明し, それが日本の音楽のよさであると,西洋音楽と比較していえるようになる。」
このように心情的なものであっても,努力すれば,行動目標に表せないことはない。
このようにして,行動目標に表したものが,指導目標と同じになるのか考察してみる。指導目標の内容は,日本の音楽を「味わわせ」,そのよさを「感じとらせる」ことである。ここでの指導意図は,「味わい」と「感じとる」こと自体にある。つまり,心の作用に変化を起こさせ,とらえ方を豊富にさせることである。これに対して,2つの特質があげられれば,日本の音楽を「味わった」ことになるだろうし,また,それがよさであることがいえれば「感じとった」ことになる,という立場で記述したのが行動目標である。
このように,指導目標と行動目標との記述内容を比較すると,前者は包含的・思索的な記述に主眼を置いているが,後者は限定的で具体的な記述を中心にしている。したがって,指導目標に包含されている内容のすべてが外面化されて,行動目標の中で具現化されているとは限らない。人間の内部に生起する意識と外に表れる行動との間には,本来ずれがあるのが普通である。あるときは,意識と行動とのずれが縮小するかもしれないが,同一であるということはほとんどあり得ないものである。指導目標と行動目標とのずれは,単に量的な差だけでなく,質的な差でもあって,それは人間の意識と行動のずれから生じていると考えてよい。両者の間に,このような差が存在する以上,行動目標と指導目標とを併記する必要のあることがわかっていただけると思う。
次に,「行動のことば」で記述すると,知的な目標だけになってしまうのではないかの議論について検討する。
まず第1に,前に掲げた「行動のことば」をもう一度読み直してもらいたい。「~がいえる」といっても,それは「~の理由がいえる」場合も考えられる。「~することができる」というのは,態度や習慣の場合もあるだろうし,「~を解く」というのは技能の場合も考えられる。これらの行動のことばに指導意図を付随して考えれば,必ずしも知的な目標だけではないことは理解できると思う。
第2は,指導の意図の違いによって,行動目標の内容も変わってくることが考えられる。
次の指導目標を比較してほしい。
例 主題 「シラス台地の特色」(社会科「地理」)
ア.シラス台地での農業の状態を,資料によって明らかにし,その特色を理解させる。
イ.シラス台地での農業の状態を資料によって明らかにして,その特色の理解を通じて,問題を追及する視点を養う。
アは,知的な理解に指導意図をおいている。イは,問題を追及する視点に指導意図の中心がある。アとイとでは,行動目標の記述も変わってくる。
ア.シラス台地での農業の特色を,耕地の利用,農産物の種類とその収益性,一戸あたりの耕地面積,農業収入などと結びつけて説明できる。
イ.シラス台地の農業の特色を明らかにするには,土壌,農産物の種類,農業経営の規 模の3つの側面から調べていく必要のあることが指摘でき,その例として,シラス土壌の性質に起因する農業災害,作物の収益性,一戸あたりの耕地面積,農業収入などをあげて説明できる。
このように,指導目標に内在する指導意図によって,求められる行動の内容が変わってくるのであって,行動目標で記述すれば,知的な目標になってしまうわけではない。もし,発見学習や探究学習,あるいは問題解決学習によって,見方や考え方を養ったり,視点を身につけさせる学習にねらいを立てた場合は,指導目標自体をまず工夫する必要がある。また,目標を発見的もしくは探求的なものばかりに設定することがよいかどうか,教科教育の検討の中で十分配慮してほしい。
アのような目標でも,発見的方法や探求的な方法で授業過程を構成することは十分可能であり,実際にアのような目標のもとで,発見的な方法を取り入れている。決して知識注入型の授業になってしまうわけではない。逆に,イのような目標を設定しても,教師の一方的な教え込み型の授業になることもあり得るのである。
目標というのは,その主題についての学習経験が児童・生徒の中に成り立ったときに,どんなことができるようになったのか,それをねらいの形で表現したものである。目標達成のために,どのような授業の展開過程を構成していくかについては,目標だけがそのすべてを規制するものではない。行動目標を分析し,分析された下位行動目標や学習要素の構成の仕方,展開過程のふり付けの仕方によって,展開過程は大きく変化してくるのである。
指導と評価の一体化の話を耳にすることがある。本提案を読んでいただければ,本時のねらいである行動目標が評価規準と一体化していること,本時のねらいを達成するために授業展開が行われていることを考えあわせると,本時のねらい(目標)と指導や評価の一体化を図るためにも,本時のねらいの重要性が理解していただけると確信している。
また,児童・生徒の学力の向上を図っていくためには,教師の指導力の向上が不可欠である。指導力の向上を図っていくためにも本時のねらいである「指導目標」と「行動目標」の設定に意を用いることが大切である。
中村天風氏は,「人間は進化と向上に順応するために生まれてきた」といっておられる。もしそうだとすれば,児童・生徒はもちろん,指導者である教師も進化・向上していかなければならない。指導力の進化・向上を願わずにはいられない。