フェロモン(pheromone)とは「ある動物が体外に分泌する物質で,微量で同種の他個体に特定の行動を引き起こさせる物質」と定義されている。1959年にアドルフ・ブテナント(Adolf Butenandt)らがカイコの性フェロモンであるボンビコールを単離し,構造決定が行われた。その後,様々な昆虫でフェロモンが同定されている。
高校の教科書では「動物の行動」の章でフェロモンを扱うが,性フェロモンや集合フェロモン,道しるべフェロモンなど,フェロモンの種類を紹介する程度で終わってしまうことが少なくない。フェロモンは微量で活性を示すため,大人数での実験は難しい。しかし,フェロモンによって特定の行動が解発される姿を実際に観察することは,つかみどころのない「行動」が,遺伝的にコードされた形質であることの理解につながる。また,生徒たちにとって強く印象に残る実験になるのは間違いない。今回は,カイコの性フェロモン活性と一連の交尾行動に関わるリリーサーを探索する実験系を紹介する(図1)。
カイコは教材用として広く販売(場合によっては教材として配布)されている。人工飼料付きの飼育セットが簡便である。様々な齢で発送してもらえるが,4眠幼虫(到着時に脱皮し,そのまま5齢の終齢幼虫となる)を購入するのが良い。幼虫の飼育観察も面白いが,今回は成虫を同時期に羽化させたいため,幼虫の飼育期間を短くし,羽化のタイミングを合わせるようにする。飼育適温は25℃とされている。極端な低温や急激な温度変化が起きないように注意する。特に15℃以下になると食が低下し,病気が発症しやすくなるため注意する。購入の際,雌が黄色繭,雄が白色繭を作る系統があればそのほうが良い。繭の色で雌雄の判別が簡単にでき,性フェロモンのコンタミネーションを防ぐことができる。通常の系統の場合には,繭から蛹を取り出し,腹部先端の構造から雌雄を判定できる(図2)。
蛹化後,蛹を繭から取り出し,新聞紙を敷いたバットに入れる。蛹の腹部先端の構造から雌と雄を分け,別々の部屋で飼育するようにする(図2)。経験上,雌の蛹は全体的に大きく,雄は雌よりも小さい(図2)。まずは蛹の大きさから大まかに仕分け,その後に腹部先端の構造から雌雄判別を行うと良い。判別が困難な個体は必ず雌の部屋に一緒にする。万が一,その個体が雌であった場合,雄の集団内に入れてしまうとすべての雄が婚礼ダンスを解発してしまい,実験に使用できなくなってしまう。
図2 カイコの蛹の外部形態。
左が雌,右が雄。
透明なクリーンカップに入れた雌雄を近づけてみる。雌は腹部末端を周期的に持ち上げながら,腹部先端にあるフェロモン分泌腺より性フェロモンを放出する(図3)。一方雄は,フェロモンを検知しなければ一切動かない。
クリーンカップを開けてそのまま交尾行動を観察するのも良いが,メスが分泌する性フェロモン(ボンビコール: Bombykol)が雄の交尾行動の解発因であることを明確にするため,以下のような工夫ができる。
未交尾雌のフェロモン分泌腺を眼科用ハサミで切断し,1mLの水を入れたマイクロチューブに入れて10分間漬ける(図3)。これを性フェロモン抽出液とする。溶媒は水の代わりにジクロロメタン(塩化メチレン)を用いても良い。
図3 雌のカイコの腹部先端にあるフェロモン分泌腺。
上記の原液をマイクロピペットで順次10倍に希釈していく。あらかじめ900μLの水を分注しておいたマイクロチューブに原液100μLを入れ,10倍に希釈する。この10倍希釈液を900μLの水を入れた別のマイクロチューブに分注し,10倍希釈を繰り返す。これによって,10-1〜10-6倍の性フェロモン希釈液を調製する。ここまでの操作はドラフトチャンバー内で行うのが良い。これらの性フェロモン希釈液は実験の前にこちらで準備しておく必要がある。
雄を実験台に置き,水を染み込ませた濾紙片(あるいは濾紙ディスク)を有柄針の先端に付けて雄に近づける。雄が溶媒の水に反応しないことを確認する。その後,濃度の薄いものから順に雄に提示し,雄の反応(婚礼ダンス)を観察する。私の経験では,最も薄い性フェロモン希釈液であっても反応することが多い。雄の性フェロモンに対する感度は非常に高く,その点についても生徒と確認できる。反応を観察した後の濾紙はすぐに密閉容器(食品保存用袋等)に入れ,実験室内が性フェロモンで充満しないようにする。また,実験室内は換気扇を回すか,窓を開けるなどして,性フェロモンによる汚染を最小限にする。
婚礼ダンスを踊っている雄の触角の一方を解剖バサミで切断する(図4)。その際,触角の感覚毛が残らないよう,基部から切断する。すると,触角がついている方に回転する行動が観察できる。さらに,両方の触角を切断し,雄の反応がどうなるか観察する。この観察によって,性フェロモンの受容器が雄の触角であることを理解することができる。
図4 雄のカイコの触角。
雄の婚礼ダンスには翅を激しく羽ばたかせる反応が含まれる(図1)。カイコの成虫は翅を持ちながら飛ぶことはできない。では,この翅を羽ばたかせる行動にはどのような意義があるのか疑問が生じる。
線香の煙を婚礼ダンス中の雄の前に近づけ,雄の触角付近の煙の気流を観察する。翅の羽ばたきによって,線香の煙が触角に当たるように吸い込まれる様子が観察できる。これは,翅の羽ばたきが周囲の性フェロモンを触角に吸い寄せる役割があることを示す。
雌雄を実際に接触させると,雄は腹部の先端を雌の方に曲げる。この行動は婚礼ダンス中にはみられない。このしり曲げ行動のリリーサーを特定するため,雌の前翅を切断し,ピンセットで摘んで婚礼ダンス中の雄の前肢に接触させ,雄の反応を観察する。すると,雌の前翅に対してしり曲げ行動を行う。また,左前肢に接触させた場合には左に,右前肢に接触させた場合には右に腹部を曲げる。つまり,しり曲げ行動のリリーサーは雌の体表にある鱗粉であることがわかる。
カイコの交尾行動を性フェロモンによる婚礼ダンスの解発と鱗粉との触覚刺激によるしり曲げ行動の解発に分割すると,一連の行動が本能行動であることがわかる。
森 精(編)(1970),『カイコによる新生物実験 -生物科学の展開-』三省堂
『よくわかる蚕(かいこ)養蚕技術普及資料』全国養蚕産地育成推進協会