高等学校の教科書・教材|知が啓く。教科書の啓林館
理科

実業高校・進学校・東日本大震災を経験して得たもの,行動したもの
~刻々と変わりゆく現代において,教育はどのように対応できるのか。

福島県立福島高等学校 遠藤 直哉

1.はじめに

この夏,東京出張4回,北は岩手から南は岡山まで飛び回った。途中に県内の進学校を対象とした合同セミナー等を行いながら,時には出張先から次の出張先へ新幹線で移動という教員らしからぬ生活を送る私に,授業の実践を紹介して欲しいとの依頼が舞い込んだ。実践と言えるものかどうか甚だ不安だが,少しでも他の先生方のお役に立てればとお引き受けした。教科教育とキャリア教育,インターネットを利用した授業システムについての取り組みを中心に書かせていただこうと考えている。

2.徐々に変化する自分自身の教育観

教員になって十年を過ぎた頃から,「教育とは何だろう」と考えることが多くなった。多くの子供たちが県外へ避難している震災後,更に増えたように思う。私の初任校は,元気な生徒が多い実業高校であった。大学院出たての私を待っていたのは大きな衝撃だった。授業のチャイムの前に教室に向かい,まずは椅子に座らせ,黒板に向かわせ,教科書を出させるまでが一仕事。教科書の内容に入るまでに相当な時間と労力を費やす日々が続いた。しかし,この経験は非常に貴重な気づきをもたらしてくれた。生徒の,「なぜ興味もないことを学ばなければならないのか」という素朴な疑問に対して,どのように答えればよいのか。きれいごとの押しつけでは納得しない生徒たちが相手である。純粋に「学ぶことの意味」を,内から湧き上がるものとして実感させなければならなかったのである。今思えば,仲間に恵まれたことは本当に幸運だった。その年に理科に配属された3人は,みな大学院を修了したばかりで教員経験なし。そんな若造ばかりが同時に配属されたのだから,普通なら大変なことになる。しかし,3人で楽しい実験を考え,授業の進め方を検討し,協力して授業に臨んだ日々は次第に充実したものになっていった。そんな私たちにとって大きな励みになったのが,授業評価アンケートの最も好きな教科で,理科が1位になったことだった。私たち自身も教員生活を楽しみ,結果として生徒たちも理科の授業を楽しんでくれていたのだ。初任校で学んだことは,「学びとは楽しいものでなければならない」ということ,そして「何を教えるかよりも,どのように教えるかが重要である」ということだ。興味のあること,好きなことになら,驚くほどの意欲と集中力を持って取り組み,伸びていく。それは,実業高校の生徒でも進学校の生徒でも同じなのではないだろうか。

3.進学校での経験から得たもの  ~そして,キャリア教育

私は2校目で,県内でも有数の進学校に転勤することとなった。不安から必死で大学の入試問題を解く一方,生徒の声を聴くことに努めた。生徒の躓きは,生徒に聞くのが一番である。多くの生徒が質問に来てくれたお陰で,徐々に生徒の苦手とするポイントがつかめてきて,生徒の成績も上がっていった。他校間比較でも東北で1,2を争うところまで成績が伸び,ちょっといい気になっていた時に試練はやってきた。ある年の3年の成績が例年に比べて偏差値で5以上低かったのである。当初理由がまったくわからなかったが,これも生徒と話しているうちに原因が分かってきた。DNA・遺伝子・染色体が区別できていない,神経鞘と髄鞘が区別できていない等,用語の定義を正確に理解していなかったのだ。だから,授業中にこちらが意識して用語の使い分けをしても,生徒には伝わっていなかったのだ。そこで急遽,基本用語を一から徹底的に理解させるプリントを作り,徹底的に基礎知識の定着をはかった。ここでも一緒に勤務していた先生の助言や協力が非常に大きな力となった。結果は,過去5年間の中で最高の成績。この経験が,困難な状況にこそ大きなヒントがあることを私に教えてくれた。しかし,生物だけができても大学に合格するわけではない。重要なのは総合力。理系では生物以上に英語・数学に時間を割くように指導するようになった。全ての教科の基礎となる国語力の重要性も強く感じ,現代文の参考書を多数購入したこともあった。進学校の教員として生徒の成績をいかに上げるかに必死になる日々の中で改めて感じたことがある。それは,勉強は将来の夢を実現させるための道具(手段)でしかないということだ。「なぜ学ばなければいけないのか」「学びを将来どのように生かすのか」「将来どのように生きたいのか」,「その目的なしに勉強をする意味はあるのか」そうした疑問の答えを探しながら,たどり着いたのがキャリア教育だ。地域の様々な方と交流する機会を持ち,日本でも最前線にいる高い志を持った方から学ぶ場を設けることで,生徒たちの視野は広がる。興味・感心が目標に結びつくことで,生徒たちには主体性が生まれる。後はフィールドを用意してやれば,生徒たちは「勝手に」学び,行動し始める。そのような事業を現在進めている。進学校では難しい取り組みではあるが,これは大学に入る前にさせることに意味があると思っている。日本のように,入学の段階で学部を決め,早くに専門が決まる国では尚更だ。現在は,福島を震災以前の,いや,もっと素晴らしい福島にすることができるのかを考えさせ,行動させる事業を立ち上げている。地元温泉の復興企画やこじれる日中関係の改善など,生徒たちは自ら課題を設定して計画を立て,ファンドレイズも行い,実際に行動し始めている。高校生には一見無謀な計画だが,行動して社会と関わりを持った生徒は確実に変わってきている。進路希望がより具体的になり,明らかに自主性が育っている。教育には,まだまだ変わる余地があり,可能性がある。その一端を担うであろうキャリア教育の分野で,どの高校でも導入しやすいスキーム作りを進めていきたいと考えている。

4.時代に応じた教育とは

最後に,現在進行中のインターネットを利用した教育システムについての取り組みを紹介したい。ここ数年,教員以外の方と知り合う機会が増え,多くの刺激を受けている。ベンチャー企業を立ち上げた方,国際人権問題の解決に向けて活動する方,今までにないインターナショナルな学校を作ってしまう方。既成概念を打ちこわし,新しい価値を生み出した方々と出会った。一流企業も決して安泰ではなく,大規模なリストラや賃金カットも当たり前の時代になり,同じものをいつまでも提供していては会社は存続できない状況になる。新製品もすぐに汎用品(コモディティー)になってしまい,価値を生み出し続けなければならない社会にはワクワクする反面,恐怖心も覚える。あらゆるものがすぐにコモディティーとなってしまう現代,教育はどうあるべきなのだろうと考える。新しい学説や指導要領でも変わらない限り,教員は同じものを提供する。教員の都合で勝手に指導するわけにはいかない。ということは,教員は,教育はすでにコモディティーなのか?敢えて言いたい。コモディティーの何が悪いのかと。教育は社会の,そして未来の基礎となるものである。だから,新しければいいという性質のものではない。しかし,問題はその質にある。授業について細かく指導された経験は,初任の時を除けばほとんどない。お互いのノウハウを共有しあう場は極端に少ないというのが現状ではないだろうか。それにも関わらず,生徒は教員を選べない。生徒たちは決して口には出さないが,授業担当者が誰になるのかで一喜一憂しているはずだ。かつて私たち自身がそうであったように。学校の授業に満足できなければお金を出して有名な塾にでも行けばいいのかもしれない。しかし,それが理想の教育とは思えない。よりよいものは早くコモディティーにし,普及させるべきなのではないだろうか。そんな考えのもと,現在進めているのが,県内の高校と大学とをインターネットを用いて連携させる事業である。様々なレベルの授業をネット経由で見ることができ,質問があればネットでできる。答えるのは,各高校の教員や大学の教員。このような取り組みによって,教育における地域格差は確実に小さくなるはずである。現在,著作権・肖像権の問題を解決すべく関係機関と検討中であるが,必ず実現させたいと思っている。教員間でも活用が進めば,まだ経験を十分に積めていない教員の指導力向上にも繋がっていくはずだ。また,各教員が専門を生かした授業を提供することで,教科の枠を,高校・大学の枠を越えた幅広い学びの場をネット上に作ることも可能だと考えている。

5.やるべきはいつか?

新しいことを始めようとすると,どうしてもマイナス面が目についてしまう。とりあえず今までと同じことを続けていればいいのではないかという気持ちも分からないではない。しかし,時期尚早とは思えない。世の中の変化に,教育現場も応えていく必要があるはずだ。蛇足になるが,現在私自身の授業配信の試験運用を行っている。そこで分かったことがある。映像になった授業は,ネットで一様に見られるのではない。考えれば当たり前なのだが,試行運用してみるまでは気がつかなかった。例えば,動物の組織やミクロメーターの使い方などの授業は,あまり見られない。しかし,脱水素反応が中心となる好気呼吸などは初回の授業の倍以上視聴されている。さらに,授業のどの時間帯の視聴率が高いかで,生徒の躓きが一目瞭然なのである。その後の授業では,好気呼吸の経路とその意義についてこれまで以上に時間を割くようになった。図らずも,私自身の授業改善に繋がったのである。

6.最後に

以上,現在実践していることをいろいろ書いてきたが,少しでも参考になれば幸いである。私自身,まだまだこれだというものにたどり着けてはいない。いや,たどり着くことはないのだろうと思う。常に可能性を信じて行動すること,そして多くの力を結集することがこれからの教育に必要なのではないだろうか。