私が小学校に通っていたのは今から半世紀も前のことである。この後の私たちをとりまく生活環境の変化はめまぐるしいばかりである。当時はまだ洗濯機やテレビなどの電化製品も普及しておらず、ましてやコンピュータもインターネットもない時代である。しかし都会にすらまだ豊かな自然が残されていた。模型飛行機や鉱石ラジオ作りに熱中したし、夏は小川で魚をすくい、蛍狩り、昆虫採集に夢中になり、一日中網を片手に野山を歩き回って過ごした。つくし、セリ、アケビ、ヤマモモ、野イチゴなどを採りに行き、自然に四季を感じることができた。星が満天を飾り星座も容易に判別することができ、天の川が本当の川の流れのように見えた。
 その当時は思いもしなかったが、今、私は自然科学の一分野である分子生物学の研究者である。その原点はこのような体験からきていると思っている。
 人類の長い歴史から考えると、このわずか50年間で人々の生活は大きく変わってきた。昔を懐かしむことは容易だが、もう後戻りすることはできない。従って、このめまぐるしい変化の時代に何が人にとって大切なものであるか、真剣に吟味されなければならない。今こそ、人は感傷的になったり流されることなく、一人ひとりの考える力が試される時代になってきていると思う。本稿では、理科教育に関わる先生方に何らかの参考になればと思って、私が日頃感じていることを述べてみることにする。
 今、しばしば理科離れが話題となっている。理科の教科のみならず、大学生の学力全般の低下は多くの大学人が日々感じていることである。これは単に小学校からの教育の問題ではなく、日本の社会の抱えている根本的な問題点であるように思う。小学校ではそれほど深刻ではないが、中学校・高校と進むにつれ、役に立つという視点だけで教育がなされたり、一人ひとりの個性を無視して機械的に数値で評価する風潮が強くなりがちである。教育の現場でも、また社会でも、子どもの「こんなことは将来何の役に立つの?」という素朴な疑問に答えられていないように思う。
 我が国は科学技術立国という姿勢のもとに国づくりを進めることが基本方針となっている。不思議なことに、日本では科学が常に科学技術という言葉で一つにくくられている。技術は確かに我々の生活を豊かにしてきた。しかし科学の本質は人間の役に立つことではない。
 自然の理解が深まることは究極的に人類の財産としてかけがえのないものであり、それは今の社会に直接的に役に立つかどうか短絡的に判断すべきではない。例えば原子核物理学の進歩が原爆を生んでしまったことからもわかるように、科学そのものは両刃の剣である。自然の理解をどのように人類の未来に生かすかは科学の本質とは別の問題である。芸術、素晴らしい絵画・彫刻・建築や音楽が人間を豊かにすることと同じく、科学は人間の本質的な知的な営みとしてとらえる視点が欲しい。
 おそらく、多くの小学生は理科の授業を好きというに違いない。少なくとも嫌悪の対象ではないだろう。それは理科の授業が自然との対話を含んでおり、観察や実験といった活動がふんだんに盛り込まれているからに違いない。
 小学生の理科で最も大切なことは、いろいろな自然現象に対して興味を抱き、それらについて好奇心を喚起することに尽きるのではないかと思う。子どもは興味があれば、それを追究していく大きな可能性を秘めている。初めて昆虫を目にしたら、その形や動きにじっと見入るに違いない。そこから興味がひかれれば、強制されることなく自分で調べて、ワクワクしながらその世界を広げていくだろう。従っていろいろな自然現象を身近に感じさせることが大切であろう。
 子どもの意欲をかき立てるためには、「人類はこの世界のことをすべて知っているわけではなく、未知の世界が大きく広がっている」「まだまだ分かっていないことが沢山あるんだ」というメッセージが大切ではないかと思う。今の教科書ではさまざまな制約から困難ではあるが、本当に優れた教科書はすでにわかっていることを記述するだけでなく、実はこんなこともまだ私たちは知らないというメッセージを送り続ける姿勢を持っているものだと私は考えている。
 小学校の理科教育の豊かさは、どれほど近代的な装置が導入されたかではまったく計ることができない。基本的な原理はむしろ単純な古い装置を使うほうが、遥かに理解が容易であり、手作りの装置で学ぶことのほうが考えるヒントが多いように思う。私たち教科書の編集者の会議でも、この点からなるべく身近な教材からさまざまなヒントを得られるように工夫することに腐心してきた。
 我々の身の回りには便利なものが出回り、必ずしもその原理まで知らずに使っているものがますます増えてきている。生活の中で、子どもは最新の技術を駆使した製品と身近に接し、体重や体温の測定もデジタル式で数値のみを見るようになった。昔は魚を売りに来る人は実際に天秤を使っていたし、医療現場でも上皿天秤などアナログ式の測定機器が使われていた。しかし、我々研究者もコンピュータを内蔵した装置に試料を入れて自動的にさまざまな計算や補正がされプリントされた結果を、ただ信じて先へ進むことが増えてきている。最新式の機器を使用することには、やぶさかではないが、そのとき大事なことは必要なときにはその原理を理解できることであろう。
 教科書作りでは多くの子どもを対象としているため、実験は期待通りに成功し、望ましい結果が出ることを重視している。しかし実際には実験がうまくいかないことも多々あるに違いない。実験とは本来そういうもので、多くの発見は実は実験の失敗から生まれたことは歴史が示している。先生には、正しい結果を全員が出さなくともいいという余裕をもって対処することが必要かもしれない。むしろ失敗した理由を皆で考察することが多くのことを教えてくれるからである。そういう意味で、そこに先生の力量が問われると思う。
 理科の学習でも覚えなければならないことは確かにある。確かな知識をもつことと考えることは相反することではなく、いろいろな知識をもっていることはそれだけ考えるヒントが増すし、素晴らしいことに違いない。最低限の知識は繰り返し学ばせてきちんとものにすることは軽視されるべきではない。
 さらに興味をもてば子どもは自分で学び自然に覚えるもので、漢字ばかりで難解な昆虫図鑑も自分でものにして、それが生涯の楽しみとなっている人もたくさんいる。興味の対象は子どもそれぞれ違うので、子どもの個性を尊重し興味をもてることから世界を広げてあげることと、それを伸ばしてあげるという視点が大切であろう。
 教科書に登場する星座の数や生物種の数を制限するようなことは本来理科教育の根本にそぐわない。自然は教科書のように年次進行的に子どもの前に現れる訳ではないし、我々を取り巻く世界は豊かで多様性に富んでいる。
 野原を1m四方で区切って見ても、なんと多様な植物や動物がすんでいるかがよくわかる。生物は互いに相互作用をしながら一つの安定な世界をつくり上げているのであって、選ばれた数種の生物種だけが空間を占有してしまうことはないのである。
 多様なものを比べることから本質が見えてくることは、生物学の最も基本的な考え方の一つである。多様性の意味やその成り立ちは、現代生物学の今後の中心課題でもある。ともかく、窮屈に考えずに子どもの自発性を重んじてそれを伸ばす姿勢が大切であろう。
 インターネットに代表される新しいコミュニケーション手段が、もの凄い勢いで我々の生活に入り込んできた。ゲーム世代に育った子どもがキーボードをたたく速さを見て、追い越されてしまうことを実感している親が多いに違いない。
 テレビやインターネットによって、普段まったく接することができない世界の情報を短時間で得ることができる。人間の感覚の中で視覚は大変大きな意味をもっており、見ただけで本質がわかったような気になってしまう。それで子どもの中には「ああ見た、見た。知ってる、知ってる。」という反応が生まれる。
 このように提供される美しい図や典型的な画像を見てしまうと、目の前の対象が貧弱に見えて、実際の現象に興味をもてなくなってしまうかもしれない。確かに全世界から情報を瞬時に取り出すことができるのは素晴らしいことである。しかしコンピュータに向かう行為は一見能動的であるように見えるが、それは間違いであろう。何を見て、何を感じそれを咀嚼してどのように自分の中に取り込むかという作業があって、初めて能動的な学習といえるだろう。
 20世紀は生物学に革命をもたらした。1953年にワトソン、クリックが遺伝子の本体はDNAであるということを明らかにして以来、我々は生命の神秘を大変な勢いで解明してきている。生命の基本的な問題はもっと小学校から教えるべき内容を含んでいる。そういう意味で小学校の理科で扱う生物の内容はもっと抜本的に変わらなければならない。生命教育は理科教育にとどまらず、情操的な面でも、倫理的な面でも重要な示唆を含んでいる。
 これからは再生医療を始め、生命倫理の問題が大きく人類に提起されるに違いない。これは専門の科学者のみに任せておいていいはずがない。それこそ人類の英知が投入されなければならない。日本の社会の流れは世の中のことは大きな力に任せておいて、自分の周りのことだけにしか関心をもてない世代を育んできてしまった。それこそ、壮大な宇宙を語り、素粒子の謎を解く世界的なプロジェクトに関心をもち、地球のことがらや生命の進化に想いをはせる科学の本質と反対の方向に向かっているように思われる。
 日本では科学の研究は研究者が一人孤独に進めているというイメージが一般的にあると思うが、それは大きな間違いで、科学もまた人間の営みの一つであり、極めて人間臭い試行錯誤の世界である。現代社会ではそれらは科学者が個々人の興味に従って進めていると同時に、研究に対する社会の多くの支援のもとに成り立っているという意味で社会的な存在でもある。
 ときどき報道される素粒子に関する話題や、広がる宇宙論や最先端の生物学の内容を理解するのは容易ではないが、人類の知識は一握りのエリートだけが占有することは決してあってはならないだろう。社会を構成する一人ひとりが大人になっても科学に興味と関心を抱き、それを次の世代に伝えていくがが、これからの社会にとって決定的な意味をもっていると思われる。将来、子どもがどのような職業に就くとしても科学に関心と理解がどれだけ広まるかが、社会の将来を左右する大きな課題となると思われる。
 私の周りにも、小学校や中学校での素晴らしい先生との出会いで、自分の将来を決めた人がたくさんいる。しかし子どもは通常先生を選ぶことができない。先生はそれだけの大きな影響力と使命をもっている。子どもは誰もがさまざまな可能性を秘めており、いろいろなきっかけで自分の将来の方向を決めていく。
 理科離れが叫ばれる中、先生の果たす役割は大きい。まだわからないことに対する興味を抱き続けさせることこそが理科教育の基本であると考えて、少なくとも理科が嫌いになるような授業だけはしないというのが最低の義務ではないだろうか。必ずしも理科の得意な先生ばかりではないに違いないが、先生自身が授業する中で発見があり、面白いと思えることが大切であろう。
 私の小学校の担任の先生は、授業中にわからないことがあると図書室に行くことを許してくれた。その場で疑問を解決させてくれて、私は今も感謝している。限られた時間やさまざまな制約があるに違いないが、学校現場の実状に合わせて創意工夫をして、多様な可能性を秘めた子どもの自由な発想と意欲をあたたかく見守ることが大切であると思っている。
編注 この原稿は、平成17年度用小学校理科指導書「総説」より一部改変していただき、再掲載したものです。