科学の歩みところどころ |
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第26回 人類の先祖は何か |
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鈴木善次 |
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失われた環
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“私は,遠い未来においては,さらにずっと重要な研究にたいして,いろいろな分野が開かれるであろう。……人間の起源と歴史にたいして,光明が投じられるであろう。” これはチャールズ・ダーウイン(Charles Darwin,1809〜1882)が彼の名著『種の起原』(1859)の最後の章で語った言葉である(岩波文庫の日本語版,八杉龍一訳から)。彼は『種の起原』ではこれ以上人間の問題には立ち入っていない。当時の社会情勢が彼をそのような態度にさせたのであろうが,当然,生物進化論の提唱は人間をも含めてのものであり,この問題をめぐって議論が展開されることになった。 ダーウインの説を支持したトーマス・ハクスリー(Thomas Henry Huxley,1825〜1895)は1863年に『自然における人間の位置』を,また,ドイツにおいていち早くダーウインの説を受け入れたヘッケル(Ernst Haeckel,1834〜1919)は1868年に『自然創造史』をそれぞれ著し,類人猿などとの比較を通して人類進化の問題を論じたのであった。 ダーウインはそれらを受けて,ようやく1871年に人間の起原の問題に立ち入り,『人間の由来および雌雄選択』という著作を公にし,人類が下等な動物から由来したものであることを,形態上の比較から論じたり,どのような仕方で進化したのかを述べた。 こうした動きから人々は人類の祖先を探し求めることになる。ヘッケルは人類に最も近いものが類人猿であると述べ,この両者をつなぐ動物の存在を暗示した。彼はこの動物(いわゆる「失われた環」)がおそらく東南アジアで見つけられるであろうことを示唆し,この動物に対してピテカントロプス・アラルス(Pithecanthropus alalus,pithec=サル,anthrop=ヒト,alalus=言葉のない)という名称さえ与えた。 ヘッケルの本を読み,“失われた環”の話に魅せられた一人のオランダ青年がいた。アムステルダムの解剖学者デュボア(Eugene Dubois,1858〜1940)がその人である。デュボアは1887年職を辞してスマトラ島へ渡った。しかし,目ざすものは見つからず,ジャワ島へ行く。1891年ジャワ島中央部トリニールでようやく人骨を発見,1893年までそこで発掘を続け,その結果を一冊の本にまとめた。彼はこの人骨こそ,ピテカントロプスであるとして,これにピテカントロプス・エレクトス(Pithecanthropus erectus,erectusとは「立つ」という意味であり,全体では「直立猿人」という意味)という名を与えた。 もちろん,直ちに彼の説が受け入れられたのではない。1895年ライデンの学会でデュボアが自説を発表したときには反対論が多く見られた。デュボアは晩年自説を翻して,彼の発見したものは頭骨などが進化した類人猿のものであると主張したそうである(アシモフ著,皆川義雄訳『科学技術人名事典』共立出版,1971年)。 |
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“南の猿人”を求めて
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ヘッケルは東南アジアに人類の祖先が見出されることを予言し,それがデュボアによって証明されたが,ダーウインは別の場所を指摘していた。彼はつぎのように述べている。 “私たちは当然の帰結として,それならば私たちの祖先が狭鼻猿類の幹から分かれたときの誕生地はどこであったかという問題につきあたる。人類がこの幹に属していたという事実は,人類が旧世界に生息していたことを証明している。そして,オーストラリアでも大洋島でもなかったことは地理的分布の法則から推測しうる。世界のどの地方でも,現存のホ乳類は同一地方の絶滅種と密接な関係を持っている。アフリカにはかつてゴリラとクロショウジョウとに密接に類似した絶滅猿が生息していたことは事実であろう。この二つの種は今日人類に最も近い種類であるから,私たちの祖先はほかの大陸よりもアフリカ大陸に住んでいたという方が事実らしい。”(ダーウイン『人間の由来』第6章「人間の類縁と系統について」より)
このように,ダーウインはアフリカから人類の祖先の化石が発見されることを上記のような論理で予測していたのである。 |
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現代人への道
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ダーウインとヘッケルの予言によって,アウストラロピテクス(猿人)とピテカントロプス(原人)が見出された。しかし,ピテカントロプスから現代人までの間には未だ道のりがあった。この間の“失われた環”に位置するものは何か。
話はさかのぼり,1856年,ドイツのデュッセルドルフ市に近いネアンデルタール渓谷で一つの古い骨がフールロット(Fuhlrott)という高校教師のもとに届けられた。翌年ボンの学会で発表したとき,ほとんどの学者はそれを原始人類の骨とは認めなかった。しかし,イギリスの解剖学者キングはこれを人骨と認め,ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と名づけた(1864年)。 この骨をめぐっての論争も長く続き,1901年ドイツの解剖学者シュワルベ(Schwalbe,1844〜1916)が認めたことで終止符が打たれる。この間,同じドイツの高名な医学者ウイルヒョウ(Rudolf Virchow,1821〜1902)などはその骨をクル病に罹って変形した老人の骨であると決めつけたと言われている。ネアンデルタール人の復元図を見たとき,ヨーロッパの人々が自分達の祖先と考えたくなかったのであろう。 1868年には南中央フランスの小村レ・ゼジーのクロマニヨン岩陰遺跡で,現代人とほぼ同じ形の人骨が発掘され,いわゆる新人のクロマニヨン人の登場となるが,そうなるとネアンデルタール人も人類の仲間として認めたヨーロッパの人類学者たちの中には,クロマニヨン人はヨーロッパ人の祖先,ネアンデルタール人はアジア人の祖先であると主張したものもいる。神・人間・自然(動物・植物・鉱物など)を明確に区別するキリスト教思想に育まれたヨーロッパ人たちは人類をもいくつかの階層に区別したかったのであろう。人種という概念が登場してからは白色人種,黄色人種,赤色人種(アメリカの原住民),黒色人種という階層差別さえした。人間と動物を同じ仲間ととらえる仏教思想の中で育った日本人では,こうした問題に対する感性に違いがあるのだろうか。 なお,最近では分子進化学的研究分野も進展し,さらにDNA分析も詳しく行われるようになって,地球上に存在する生物間の類縁関係やそれらがお互いに分れた時代などをかなり正確に知ることができるようになった。人類が類人猿の仲間と袂を分かったのは今から500万年前という数字も出ている。そうなるとかつて人類の祖先と考えられたラマピテクスはそれよりも古い800万年前ごろの地層から発掘されているので矛盾する。これも後の1978年に南アジアで新たにラマピテクスの化石が発掘され,調査結果からそれがオランウータンの祖先であることが明らかになって解決した(講座『進化 [3] 古生物学からみた進化』東京大学出版会,1991年)。 〈参考図書〉 ・ドビーニン,シェフチェンコ著,奥井一満監修,福渡淑子訳『ヒトが人間になるとき−その遺伝と大脳生理』(講談社サイエンティフィク,1979年) ・河合雅雄著『森林がサルを生んだ−原罪の自然誌』(平凡社,1979年) |