科学の歩みところどころ
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第24回
天気現象研究の足跡
鈴木善次
 
古代人の考え

 風が吹いたり、雨が降ったり、さらには雷鳴が轟いたりする現象は古くから人々の関心事であった。彼らはそれらがどうして起こるのか、その実体は何なのか、その時代に得られる知見をもとに、それぞれの解釈を下していた。その場合、彼らが考えた宇宙像が解釈の幅に制約を与えていた。閉ざされた宇宙像を描いていたヘブライ人たちは宇宙の果てに風倉や雨倉を想定し、そこから風が吹き、雨が降ってくるものだと考えていた。
 ところで天気現象を対象とする学問は気象学である。この英語はmeteorology であるが、その語源はギリシャ語でμετα(間に)とαειρω(あげる)が合わせられたものである。すなわち、空中に浮かんでいるものを研究対象とする学問という意味である。この言葉はギリシャのアリストテレス(Aristoteles,B.C.384〜322)の著書『気象学(meteorologica)』で用いられている。彼によれば、流星(meteor)、隕石(meteorite)、彗星、さらには天の川までも含めたものが研究対象であった。これも当時の知見の制約を受けていた例といえよう。アリストテレスの宇宙論によれば宇宙は天上界と地上界(月下界)に分かれていた。その境は月であり、その月より下の現象を気象論として扱っており、天の川も、彗星も月下界のものとして捉えていたのである。
 では、アリストテレスは風や雨をどのように理解していたのであろうか。既に彼以前から風が空気の流れであるという考えは見られていた。ただ、それがどのような実体からなるかについては一元素説を唱える人たちと四元素説を唱える人たちによって異なり、前者は風の実体と雨の実体が同じであると考えていたし、後者は異なる実体からなるとしていた。アリストテレスは後者に属する人物であり、地上には2つの種類の蒸発物があって、一つは湿ったもの(水蒸気)、もう一つは乾いたもの(煙など)であるとし、それらが太陽の熱と地中の熱などによって運動するのであると論じている。彼によれば風は土から出た乾いた蒸発物が、ある大きさの塊となって大地のまわりを動くものであった。
 この他、アリストテレスは北風や南風が吹く理由、あるいは風の日周変化などの理由を彼なりの論理で展開している。例えば、エテシアと呼ばれる7月の終わりから吹く強い北風が夏至や冬至、あるいは夜間に吹かない理由を次のように説明している。

 “このことの原因は、太陽が近くにあると蒸発物の生じるよりも先に(大地)を乾かすことにある。しかし、太陽がほんの少しでも退いていけば、蒸発と熱との釣り合いが回復されるので、凍った水は溶かされ、また自分の熱と太陽の熱とによって乾き切った土はいわば煙と香気を放つことになる。またこの風が夜に吹かないのは、夜の冷のために氷が溶けるのが抑えられるからである”(『アリストテレス全集』第5巻、第21章「気象学」。岩波書店、1976年)。

 いっぽう、中国においても古くから気象に関心が向けられていたようである。古代中国では自然現象が陰陽説に基づき説明されており、例えば、雷は陰と陽がお互いに自らをぶつけ合うために生じるものであると考えていた(准南子、B.C.120年ごろ)。風や雨については、“風は天の気であり、雨は地の気である。風は季節に従って吹き、雨は風に応じて降る。天の気は下降し、地の気は上昇する”(計倪子、B.C.4世紀ごろ)などの記述があるという(ニーダムによる)。
 こうした古代の人々の論理的な説明のほかに、実際に気象を観測する動きも見られていた。B.C.5世紀には既に雨量計や風向計が現われている。しかし、それらによって天気の予想をすることはデータ不足、理論の不備などから無理なことであった。
 
観測機器の進歩

 17世紀になると、大気に関する知見も増え、トリチェリ(Evangelista Torricelli,1608〜1649)、パスカル(Blaise Pascal, 1623〜1662)たちによって気圧という概念が提出され、それを測定する気圧計が発明された。この気圧の研究に関連して登場する人物にドイツのマグデブルグ市長であったゲーリケ(Otto von Guericke,1602〜1686)がいる。ゲーリケは気圧の測定を連続して行い、同一の場所でも時間に伴い変化すること、特に気圧の急激な降下が示されたあとに暴風となること、などに気づいた。これは天気を予測する一つの目印となることであり、重要な発見であった。
 気象を調べるのには気圧計のほかに、風力や風向を知る装置が必要である。風向に関しては古代から見られていたが、装置として改良が加えられ、中世では風見鶏、矢羽根などが現われている。いっぽう、風力計であるが、17世紀になると、ロバート・フック(Robert Hooke,1635〜1703)が簡単な風力計を発明している(1667年)。長方形の板に風が当たり、その強さに応じて板が吹き上げられる。吹き上げられた角度で風の強さを知るわけである。その後、19世紀になるとロビンソン型風力計が登場し、回転回数で風の強さを知る方法が採用される。
 さらに気温と湿度も気象観測には不可欠の資料である。温度計に関してはガリレイ(Galileo Galilei,1564〜1642)が手がけたことは有名である。彼のものはガラス球とガラス管をつなぎ、中に空気と水を入れたもので、空気の膨張の度合いでガラス管中の水が上下する仕組みになっている。そのあと、1631年フランスのレーが水の熱膨張を利用した温度計を、さらに1640年ごろ、イタリアのフェルディナンドがアルコールの熱膨張を利用したものを作り出し、便利さを増した。
 湿度計の発明も例のフックに負っている。毛髪湿度計の原理であるが、彼の場合には毛髪の代わりにカラスムギの毛を用いたと言われている。今日のような乾湿球湿度計は1825年ドイツのアウグストによって発明された。
 中国では17世紀に出された『圖書集成』に気体温度計の図が載せられており、ガリレイのものに似ているという。東西の交流が行なわれていたことを示すものなのか、独立に考えだされたものなのか、詳しい検討が必要であろう。同じ書物に鹿の腸を利用した湿度計も見られているそうである。
 中国と言えば、治水に力を入れたことは衆知のことである。洪水に悩まされること度々であったことだろう。こうした実際面から組織的に雨量を測定することも行なわれた。15世紀の明代には全国に雨量計が設置されていたし、時代とともに、いろいろ改良された雨量計が現われている。(いずれもニーダムによる)
 
近代気象学の動き

 上述のようなさまざまな観測機器が現われ、気象に関するデータが集められ始めると、それらから一般化を試みることが可能になる。つまり、天気の予報がなし得るということである。その場合、今日の天気予報のやり方でも知られるように広範囲にわたる天気図が必要になってくる。最初の天気図が作られたのは17世紀イギリスのエドモンド・ハレー(Edmund halley、1656〜1742。彗星の発見で有名)による風の系統図であると言われている。彼は船乗りたちの航海日誌をもとに大西洋、インド洋、太平洋における風向きを調べ、貿易風、季節風の存在を見出した(1686年)。もちろん、現象論だけでなく、物理学的知見が増すと、理論化の試みもなされる。同じイギリスのハドリー(George Hadley,1685〜1768)は、ハレーが説明できなかった貿易風の吹く方向(北半球では北東から、南半球では南東から)について地球の自転と熱帯の炎熱による空気の置換の結果として現われるものだという説を唱えた(1735年)。
 科学的な天気予報の始まりはスコットランドのウイリアム・リード(1791〜1858)であるという(シンガー『科学思想の歴史』による)。彼は1831年からカリブ海でハリケーンの進路を調べている。これをもとにアメリカのモーリ(Mathew Fontaine Maury、1806〜73)が精力的な研究を行い、莫大な気象学上の資料を収集し、やがて国際的な研究組織を作らせるまでになる。1872年には国際会議が開かれ、ここに気象学は一つの科学の研究分野として成立した。
 こうなると、単に観測データをもとに、過去の経験と照らして天気を予報するというだけでは十分でなく、さまざまな天気現象の因果関係、しくみなどを明らかにする必要が出てくる。つまり、理論化である。
 20世紀に、この面で活躍するのがノルウエーのビヤークネス(Jacob Aall Bonnerie Bjerknes、 1897〜1975)とその父である。この父子は第一次世界大戦中、ノルウエーの全土に気象観測所を設け、そこから得られるデータをもとに、“極前線”なる理論を導き出した。すなわち、熱帯気団と極気団の二つの気団の存在を明らかにし、その境界線に“前線”という名称を与えた(1919年)。二つの気団はこの前線で雲を生じ雨や雪を降らせるのである。
 彼らの研究の背景には物理学、とりわけ流体力学と熱力学の発達があった。地震学の進歩が物理学に影響されていたのと同様、この気象学にも物理学の理論が大きく貢献しているのである。
 今日では気象用のロケットや人工衛星などから莫大なデータが得られるようになり、なおかつ、そのデータもコンピュータによって短時間で処理されるようになり、気象学は一段の進歩を遂げている。毎日のテレビに映る気象衛星からの雲の画像は人々に気象現象への関心を高めさせている。
 ところで、日本で気象学が開始されたのは1855(安政2)年であり、オランダ人によって導入されている。明治時代になり、1875(明治8)年、東京気象台が創設され、観測が開始されている。特に台風の襲来が多い日本のこと、台風に関する研究が盛んに行なわれたが、その中でも大正の末、1926年に台風の中の気圧、風、降水、気温の平均的分布を調べ、台風の最盛時における定常状態保持の仕組みを論じた堀口由己の「極東台風論」はビヤークネスたちヨーロッパの学者たちの提唱する学説と対立するものであり、この分野における日本の研究レベルの高さを示すものでもあった。彼はこの論文の功績で1927(昭和3)年に学士院賞を受賞している。
 ●気象学史に関しては、高橋浩一郎・内田英治・新田尚著『気象学百年史―気象学の近代史を探究するー』(東京堂出版、1987年)がある。