科学の歩みところどころ
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第23回
1メートルはどうして決めた?
森 一夫
児島昌雄
 「キロキロとヘクト出かけたメートルが,デシに追われてセンチ,ミリミリ」ということばが,かつて生徒たちに口ずまされたことがあった。今日の中学生たちはそんなことを口にしなくても,メートル法にすっかり慣れ親しんでいる。ところが,理科の時間には大抵お目にかかるメートル法の単位も,その歴史となると案外知られていないのではなかろうか。今回は,長さの単位であるメートルを取り上げて,その歴史をたずねるとしよう。
 
地球を規準に

 長さの単位の基準として古くから用いられてきたのは,人体のある部分の長さである。わが国の「尺」や「寸」も,そのルーツをたどれば,「尺」は指をひろげたときの親指と中指の先端までの手幅,「寸」は親指の幅に由来するといわれている。インチ,ヤード,フートなど,この種の単位はきわめて多い。人体以外では,大麦の粒の大きさや,トナカイの角の枝を見分けられる距離を基準にした単位もある。これらは,地域の生活の様子を反映していてなかなか興味深い。面白いところでは,タバコをつめたパイプに火をつけてから煙が出るまでの間に舟が進む距離で定めた「パイプ」という単位があったという。
 生活の範囲が限られていた時代だと,地域で勝手に決めた単位でも大して支障はなかったが,異なる単位を使う地域同士の交流がさかんになるとそうはいかない。国際間の貿易や科学・工業がめざましい発展をみせた18世紀には,とりわけ,単位が不統一なために弊害が起こってきた。また,兵器などの器械の製造や精密測量の分野では,単位が高い精度をもつことも要求された。こうした状況のなかで,いくつかの国は,単位の統一に真剣に取り組みはじめた。

 とりわけ単位の統一に力を入れた国は,フランスである。1790年に,国際間の単位統一を唱えたタレーランの提案がフランス国民議会で承認されるや,政府は新しい単位系を作り上げる任務をパリ科学学士院にゆだねた。ラボアジェ,ラグランジュ,ボルダといった当代一流の学者が,長さの単位として,1秒を振る単振子の長さ,赤道の全周,もしくは子午線全周の4千万分の1の三案のうち,どれが適切かを検討した。その結果,振子の場合は時間の単位が関係しており,また赤道の長さは測量が困難なために,結局,赤道と北極間の子午線の長さの千万分の1を長さの単位とすることに落ちついた。そしてこの単位には「寸法」を意味するラテン語の“metrum”にちなみ,“mtre”という呼び名が与えられた。さて,一口に子午線の測量といっても,これは一大事業である。イギリスやアメリカの協力が得られなかったフランスは,やむなく単独で子午線の測量に着手した。
 
苦難の連続の子午線測量

 子午線の測量にはダンケルクからバルセロナまでの距離が選ばれ,ドランブルとメシェンらがその任にあたった。時あたかもフランス革命最中の1792年,彼らは二隊に分かれ,パリをあとに測量の旅へと出発した。持つものは,ボルダの発明した経緯儀,信号灯などの測量器具一式と,身の安全を保証するはずの“お墨付”である。中でも自慢の種は,1秒の精度を誇る最新式の経緯儀であった。


子午線測定のための三角測量網

 さて旅に出た彼らには,政情が不安定な折柄,測量上の労苦のみならず,数々の思いがけない災難が待ちかまえていた。たとえば,北側を担当したドランブルは,あるとき塔に巻いた標識用の布が王家を示す白色であったために反革命分子かと疑われ,あわてて白布の一部に青と赤の布を重ねた三色旗を仕立てて,この危機を切り抜けたという。一方スペイン領を含む南側を担当したメシェンも,一時は亡命同然の身の上になったり,果ては機械の事故で大怪我を負う始末であった。
 出発から6年を経た1798年,苦難の旅にも終止符が打たれた。測量の結果,赤道から北極までの子午線の長さは5130740トワーズとなり,1メートルが3ピエ11.296リーニュと算出された。さっそく,この長さを表示する板状のメートル原器が白金で作られた。この原器は,その保管場所である共和国文書保管所にちなみ,“アルシーブの原器”と呼ばれるが,この原器はのちにメートルの歴史上重要な役割をはたすことになる。

 
国際メートル原器の登場

 こうして定められたメートル法は,十進法で,しかも長さの2乗が面積,3乗が体積の単位になるなど,かつてない合理的な単位系であった。にもかかわらず,フランス国内でもその普及は遅々として進まなかった。今日の日本でさえ,いまだに酒や米の単位に「合」や「升」が愛着を持たれていることを思えば,当時のフランスでも民衆の習慣を変えることがいかに困難であったか推察できよう。
 国際的にみても,メートル法は容易に普及しなかった。だが,1851年のロンドン万国博から1867年のパリ万国博にかけてフランスの行った宣伝が功を奏し,メートル法採用への気運が国際的に盛り上がる。相ついで国際会議が召集され,1870年にはメートルの定義にも新たな決定が下された。すなわち,国際メートルは,“アルシーブの原器”の現状の長さに定めると。実はこの決定は,長さの基準が地球という自然物から人工の原器にかわったことを示す重要な決定だったのである。これも,地球の大きさ・形状などの研究が進み,地球が単位の標準には適切でないことや,赤道から北極までの子午線の千万分の1が正確にはメートル原器と等しくないことなどがわかってきたからである。ちなみに,“アルシーブの原器”と,今日知られている子午線の長さから求めたメートルとの差は,わずか0.023%であることを付け加えておこう。
 さて,人工の原器が国際メートルの標準器となる以上,原器をできるだけ不変に保つ必要がある。そのため,新たに“アルシーブの原器”の長さに等しく作られた国際メートル原器には衆知が結集された。材料は白金90%イリジウム10%の合金を使い,断面は図のようにX型で,原器を支える棒の位置まで決められた。原器の保管も,ヤード・ポンド標準器を火事で台無しにしたイギリスのような不詳事件(1834)を起こさないために,厳重をきわめた。わが国の原器も,以前は8つの扉の奥に大切に保管されていたという。


国際メートル原器の形状

 だが,これでメートルの歴史が終わったわけではない。人工の原器である以上,どうしても不変性についての危惧がつきまとう。不変性を普遍性,それに高い精度を備える標準器が追い続けられた。そして,再び,自然界にあるもの,それも原器とちがって形のないものが,新たな標準器として脚光をあびてきた。光である。

 
光の波長が長さの基本に

 光の波長を長さの基準にする発想は,マックスウェルが著書『電磁気学』(1873)の中で初めて披露したが,まもなく光波干渉法を用いたメートル原器の温度係数の測定が試みられている。本格的に光波長に基づくメートルの定義が論議されるのは,国際度量衡委員会がこの研究をマイケルソンに依頼した1892年の頃からであろう。マイケルソンは,彼の考案した干渉計でメートル原器の長さと光波長とを比較してカドミウム赤色光の波長を求め,光波長でメートル原器の長さを再現できる見通しは充分にあると報告した。
 やがて同一同位元素の分離や製造技術,それにスペクトル解析の進展とあいまって,光波長でメートルを定義する機も熟してきた。さて問題は,どの原子の光を選ぶか,である。明るさや実現の容易さに加えて,純粋な単色光でなければならない。この条件に合う光として,ソ連はカドミウムの赤色光,アメリカは水銀の緑色光,ドイツはクリプトンの橙色光をそれぞれ推薦した。慎重な検討の結果,クリプトンに軍配が上がった。1960年,この決定に従いメートル原器による長さの定義は廃止され,代わってその原器に等しい長さが次のように定義された。「メートルはクリプトン86の原子単位2p10と5d5との間の遷移に対応する光の真空下における波長の1650763.73倍に等しい長さにする」(注)と。ちょうどこのころ,日本の原器が,消えゆく運命を知らずに,目盛線の引きなおしのためパリへお里帰りしていたのは皮肉というほかない。
 新しい定義によって,メートルの精度は10-7から10-8へと上がったが,レーザー光の出現などで,この定義の変更される日が早晩やってくるかもしれない。こうしてみると,メートルの定義も,時代とともに移り変わって今日に至っているのである。

(注)本稿は1979年に執筆されたもので,現在は光速度を基準とすることに変更されています。