科学の歩みところどころ
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第21回
原子の構造
森 一夫
児島昌雄
 
原子は最小の粒子でない

 今世紀初頭に明らかになった原子の構造は,今日では中学校の教科書にも登場している。原子の構造の解明にα線の散乱実験が大きな役割を果たしたことはよく知られているが,ではこの実験からただちに,中心に核をもつ原子模型が考えられたのだろうか。今回は,α線の実験からどのようにして今日のような有核原子模型が成立したのかを,探っていくとしよう。
 物質が原子よりもさらに小さな粒子から成ることは,電子が発見されたころから予想されていた。というのも,電子は水素原子よりもはるかに小さな質量をもち,しかもすべての物質に含まれていそうだったからである。つづいて,放射能が原子の内部で起こる変化に起因することが認められてくると,原子が構造をもつことは確実になってきた。分割されないはずの原子(アトム)が構造をもつ!−原子論を信じていた科学者たちは大いに動揺した。事実,これは当時の物質観の根底をゆるがす大問題であった。
 
原子模型の登場

 1903〜4年ごろに,原子の構造を示す模型がいくつか登場する。それらは,原子の中心に核をもつものと,そうでない模型に大別できる。核をもたない模型を唱えたのは,ケルビンとJ.J.トムソン(1856〜1940)である。
 ケルビンは,18世紀の物理学者エピヌスの電気一流体説(正負の電荷は一種類の電気流体の過不足によって生じるという説)に従って,非常に小さな“electrion”(今日の電子にあたる)なるものから成る“エピヌス流体”を想定した。そして,陽電荷の球体内部をこの“electrion”が自由に動き回っているのが原子にほかならないと考えた。
 J.J.トムソンの模型は,ケルビンの模型をさらに精緻化したものである。J.J.トムソンもまた,原子は,一様に正電荷を帯びた球体の内部に電子を含んでいると考えた。その電子は陽電荷球の中で同心円上に同じ間隔で並んで,回転しているというのである。彼は,この電子系が,陽電荷球と電子,それに電子相互のクーロン力の下で力学的に安定となる条件を数学的に検討した。すると,電子の全体の数がふえるに伴い,何重ものリング上に配列された電子の配列パターンには周期性が現れた。物質の化学的性質を原子の構造で説明できないかと思っていたJ.J.トムソンは,この模型が元素の原子価や周期律に関係していると主張した。
 一方,こうした無核原子模型に対して,わが国の長岡半太郎(1865〜1950)はつぎのような疑問をもった。陽電荷球の内で電子が自由に動いていて,はたして,支障は生じないのだろうか。電荷もまた物質的存在だという物質観を抱いていた長岡には,2つの物質が同一場所を占めるとは考えられなかった。では,陽電荷球から電子を離すとすれば,電子はどのように配置されるのだろうか。このとき長岡は,マックスウェルが土星の周囲を回転している衛星の力学的安定性を論じていたことを思いだした。そこで,土星の衛星を電子になぞらえた有名な土星型原子模型を提出したのである。こうして宇宙の姿から極微の世界を類推できたのも,小学生時代に教師から教わった自然の斉一性という自然観が彼に大きな影響を与えていたからといわれている。


望遠鏡でみた土星

 長岡とは別にペランも,太陽を陽電荷に,惑星を電子に対応づけた有核原子模型を唱えていた。二人とも宇宙の姿から原子の構造を類推している点は興味深い。
 これらの模型のなかでは,学界の大御所J.J.トムソンの模型が多くの支持を得ていた。ところが,思わぬ方面からこの模型に火の手があがった。α線の散乱実験がそれである。

 
α線の散乱とラザフォードの模型

 α線の正体を追求していたラザフォード(1871〜1937)は,写真乾板に写るα線の像が空気中ではぼやけるのに,真空中ではぼやけないことに気づき(1906年),これはα線が空気中で散乱させるからだと解釈した。彼はこの現象に興味をひかれ,α線の進路に金属箔を置いて,散乱されるα線の角度分布を調べた。α線が蛍光物質に当たると閃光を発することがわかっていたので,蛍光板に生じる閃光を顕微鏡で観察して,α粒子の曲がり具合を測定してみた。すると,α粒子は角度にして数度屈曲され,その度合いが金属箔の厚さや原子量に比例することがわかった。あるときラザフォードは,放射能の実験を練習していた研究生マースデンに,何気なく「金属の表面から直接反射されるα粒子があるかどうかを調べたら,面白いだろう」と声をかけた。早速マースデンは,ガイガーといっしょに下図のような装置を工夫して実験に着手した(1909年)。90度程度の大角散乱があれば,すぐに感光板で察知できるという,単純な実験である。
 いざ実験してみると,何と20000個に1個の割合でα粒子は大きく曲げられているではないか。しかも金箔の厚さはわずか0.00004cmである。この報告を聞いたラザフォードは,その驚きをこう述べている。「あなたがたが15インチの砲弾を1枚の紙切れに向かって発射したら,それがはね返ってあなたがたに当たるくらい,私にとっては信じがたい出来事であった」と。

 さて,実験家肌のラザフォードにとって,この現象を理論的に説明するのが難問であった。折よくJ.J.トムソンが,荷電粒子は物質の薄膜を通過するときに,どのように散乱されるかということについて理論を提出してくれていた(1910年)。それは,先述したJ.J.トムソンの原子模型の中を荷電粒子が通るときに,各電子からの力を受けてすこし屈曲し,その屈曲が積み重なって全体として大きな散乱角を生じるという多重散乱理論である。ラザフォードが,J.J.トムソンの原子模型に基づいたこの理論を使ってα粒子の大角散乱の生じる確率を計算してみると,その確率は小さすぎて実験結果と一致しない。困ったラザフォードは,α粒子が原子と一回衝突するだけで曲げられるという単一散乱の考え方で,この結果を説明できないかと考えた。そのためには,J.J.トムソンの原子模型のままでは都合が悪い。一回の衝突でα粒子を大きく曲げるには,かなり強い電場を原子内にもつ模型が必要だ。ラザフォードは,荷電粒子に力を及ぼす部分が原子の中心のごく小さな領域に集中し,その周囲を,中心電荷と反対の電荷が一様に分布する原子模型を仮定した。このときα粒子は,高速で太陽に近づくすい星のような軌道を描く。新しい原子模型による散乱理論でα線の大角散乱のみならず,α線の小角散乱やβ線の散乱も説明できたのは,マースデンの実験から2年ものちのことであった。ただこの時点では,彼の原子模型は仮説の域を越えず,その完成はボーアまで持ち越されたのである。
 ところで,ラザフォードの原子模型は長岡らの有核原子模型を発展させたものだとよくいわれるが,核の大きさが極めて小さい点で,従来の有核原子模型とは決定的に違う。ラザフォードはJ.J.トムソンから強い影響を受けたという説がもっぱら有力である。

 
ボーアの理論

 ラザフォードの模型を知ったボーア(1885〜1962)は,原子核が異常に小さいことに注目して,原子の質量と放射能は原子核に,また原子の物理的・化学的性質は周囲の電子群に由来していることを早くも看取していた。しかしラザフォードの模型は,以前から指摘されているように大きな難点をもっていた。というのは,古典電磁気学では,加速運動している電子はたえず輻射エネルギーを放出し,徐々に失速してしまうからだ。ボーアは,プランクらの“エネルギーの不連続性”という主張を採用して,この難点を何とか解消できないかと四苦八苦した。やがて,スペクトルの波長の間に成立する関係(バルマー系列)に手がかりを得たボーアは,大胆な仮説を唱えた。ある特定の軌道上を運動する電子は輻射エネルギーを放出せず,レベルの異なる状態に移るときのみエネルギーの放射・吸収が起こるというのである。そして彼は,原子核のまわりをクーロン力を受けて電子が回転しているという原子像を描いた(1913年)。このような有核原子模型が提出されて,ニュートン力学とは違った法則が支配するミクロの世界の扉が開かれたのである。