科学の歩みところどころ
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第20回
地震とは何か
鈴木善次
 
古代人の地震観

 地震と言えば鯰(ナマズ)、古くから日本で言い伝えられているこの地震の原因説を知らない人はまずいないであろう。最近の地震の際にもナマズを含め、いろいろな動物の行動が注目された。
 こうした地震の原因説は洋の東西を問わず存在する。北欧の神話では、地下の洞窟に居られる神が毒虫に目を刺され、その痛みでもがくために地震が起こるのだと説明されているそうである。人間にとって不可知な事柄はおおかた神や悪魔のなせる業にする傾向があった。これは神話的、呪術的自然観の下で生活していた古代人にとってはやむを得ないことである。
 ところで、ナマズは神でも悪魔でもない。れっきとした動物である。その点が北欧の神話と趣を異にしている。これに関連して次のような説がある。
 中国では古くから陰陽説が人々のものの考えや生活のあり方に影響を与えていた。地震についても同様であり、地震というのは陰なる地に閉じ込められていた陽なる大気が地表へ飛び出すときに起こる現象であるという(このことは中国の古書『易経』に記述されているという)。この説がいつの間にか陰なる水の中にすむ陽なる魚が暴れる現象へと作り変えられてしまったのであろう。その魚がナマズになった理由もあるのだろうが、読者の皆さんの調査におまかせしよう。
 注目していただきたいのは、古代中国人の地震に対する考えかたが、すでに論理的体裁を整えているということであり、それ以前の神話的、呪術的自然観の時代から一歩前進しているということである。
 ついでだが、古代中国には地震学の歴史の中で大きな栄誉となる事柄がある。それは世界で最古の地震計が張衡(78〜139)によって作りだされていることである。“陽嘉元年(132年)、張衡はまた「地震風見」を作った。それは精製した鋳銅からなり、酒がめに似ていて直径は8尺であった。”
 いっぽう、西欧世界でもギリシャ時代になると、いくらか理論的な地震説が現われている。アナクシメネス(Anaximenes,BC,525ごろ死亡)は土の塊が凹んだところへ落ちる現象であると述べ、土の運動に原因を求めている。また、アナクサゴラス(Anaxagoras,B.C.約500〜428)は地中で水が激しく流れ落ちるために起こる現象として、水の運動を原因としている。
 さらに、アリストテレス(Aristoteles,BC.384〜322)は地下にあった蒸気(プネウマ)が勢いよく地上へ吹き出すために起こるのが地震であると説明しており、これは中国人の考えによく似ていて興味がある。それにしても、当時の四元素説(万物は火・気・水・土の四つの元素から成り立つ)に登場する元素のうち、水、土、気の三つが原因として持ち出され、如何に四元素説がギリシャ人の思考を強く支配していたかが知られる。
 ローマ時代になるとセネカ(L.A.Seneca,B.C.4〜A.D.65)がアリストテレスとアナクシメネスの説を合わせたような考え、すなわち、地下の空洞にあった蒸気が地上へ飛び出したあとへ、上部の地面が落ち込んだときに起こるのが地震であるという説を述べている。これはいわゆる、後の陥没地震と呼ばれるものに相当している。
 
中世から近代へ

 中世になると、アラビアの著名な科学者アビセンナ(Avicenna,イブン・シーナともいう。979〜1037)も地震についての考えを述べているそうである。彼の場合には地面が隆起する際に生じる勢いが伝わって地震になるという。これは陥没地震に対応して構造地震と呼ばれることになったものである。
 こうしたさまざまな説も具体的な証拠も出せないまま17世紀を迎える。17世紀といえば近代科学が誕生したときであり、実証精神が高揚していた。そのようなとき、例のロバート・フック(Robert Hooke,1635〜1703)が地震に関心を示し、さまざまな観察記録を残している(『地震に関する論文』1705)。彼は地震によって大地が隆起すること、あるいはその逆に陥没すること、そのほか、大地の変形、破壊、溶解などの現象を揚げているが、こうした観察はその後の地震学の発達にとって重要な一つの証拠となった。
 しかし、それにもかかわらず、事実に立脚しない想像力豊かな説がいろいろ流布していた。例えば、地震は地球内部での突然の爆発であるというような考えも見られた。
 こうした状況をいくらか進展させたのが18世紀イギリスの地質学者、地震学者ミッチェル(Johan Michell,1724〜1793)であろう。1755年リスボンを大地震が襲った。この地震にはライプニッツ(G.W.Leibniz、1645〜1716)やカント(I.Kant,1724〜1804)も大きな関心を示したようであるが、ミッチェルもこれに刺激され、地震についての研究を開始した。彼は、地震がどこで、どのような状況で起こるかを詳しく調べ、その結果を1760年に公表している(Philosophical Transactions of the Royal Society of London,Vol.LI,pp.566〜74.この論文は“A Source Book in Geology 1400〜1900、Harvard に収録されている)。
 彼はこの論文で、地震が同一の場所でくりかえし起こること、火山の近くではしばしば起こること、激しいときには火山が噴火すること、地震のとき、大地がゆれるが、それが波となって周囲へ伝えられること、などの事実をあげ、地震は突然の爆発などではなく、火山の熱によって地中にあった水が熱せられ、それが蒸気圧となって周囲を圧迫し、地震という現象をもたらすのだと論じている。はからずも四元素説の四元素のうち、残された「火」がミッチェルによって地震の原因として取り上げられたわけである(もちろん、四元素説の「火」の概念とは異なるが)。
 彼がこのほか、震動を感じる時刻を記録することによって震源地を推定しうると考えていたようであるが、それが可能になるのには精度のよい地震計の出現や地球科学の進展を待たねばならず、それは約100年後に現実のものになる。
 
近代地震学の誕生

 19世紀の前半はまだまだ地質学の立場から地震の研究がなされていた。そのために地震の原因を地質現象と結びつけ、すでに紹介した陥没地震、構造地震のほかに火山地震を付け加え、3種類の地震原因説が採用されていた。
 しかし、19世紀の末には状況に変化が見られるようになる。それには地震が多発する日本という舞台がかかわることになる。1880(明治13)年2月22日、横浜を中心にして関東地方をかなり強い地震が襲った。当時、東京大学工科大学で地質学を教えていたイギリス人のミルン(John Milne、1850〜1913)もこの地震を体験し、早速、地震研究の必要性を認め、この年世界で最初の地震学会(日本地震学会)を創設した。これには当時、お雇外国人教師として活躍をしていたメンデンホール(T.C. Mendenhall,1841〜1924)やユーイング(J.A.Ewing,1855〜1935)たちも含めて、日本の科学者を中心に約100名が参加した。
 この中で特筆すべきことはユーイングとの協力でミルンが三方向の振動が記録できる地震計を作り、1884(明治17)年から継続して地震の記録をとることができるようになったこと、及びユーイング自身自作の水平振子地震計を用いて、地震波に縦波(P波)と横波(S波)があることを見出したことである。
 ミルンやユーイングとともに早くから地震学の研究に携わっていた関谷清景(1854〜1896)はユーイングの地震計を改良して強い地震でも信頼し得る記録をとることに成功し、また協力者の大森房吉(1868〜1923)も微動に対しても高感度の地震計(大森式水平振子地震計)を作り、初期微動開始時刻を捉えることから震源地を推定するための数式を編み出した。
 このように地震学は日本を舞台にして科学界の中にその足場を築いていったが、その糸口を作ったミルンはその後イギリスに戻り、ワイト島に測候所を建て、観測に当たった。彼は地球深部を伝わる地震波の速さを測ることを目ざしたが成功しなかった(1906年)。
 この研究は地震波を利用して、地球の内部構造を知ろうとする動きの始まりであった。
 ミルンの失敗後3年経って、ユーゴスラビアのモホロビッチ( Andrija Mohorovicic、1857〜1936)がこれに成功し、地球内部を伝わる地震波が表層を伝わるそれよりも早いことを知り、地表から30〜50kmのあたりに地表より硬い層があるという考えを提唱した(1909)。
 その後、イギリスのオールダム(Richard Dixon Oldham、1858〜1936)とドイツのグーテンベルグ(Renno Gutenberg,1889〜1960)がさらに深部に別の境界面があることを見出し(1913)、これによって今日知られている地殻、マントル、核の三つの部分の存在が確認された。このうち、オールダムはアッサムでの1897年、1900年の二回の地震を調査し、P波とS波を明確にし、地球の中心に核が存在することを明らかにした(1906年)。
 こうして、地震を一つの手がかりにして地球の内部を知ることができるようになり、物理学的手法を駆使した地球科学の発達がもたらされた。また、それが逆に地震発生の仕組みの理解にもつながることになった。まだ、正確なことはわかっていないが、マントルの対流、プレートテクトニクスなどの言葉を用いてそれらが語られるようになったのはご承知の通りである。
※なお、日本の地震学に関しては藤井陽一郎著『日本の地震学』(紀伊国屋新書、1967年)がある。