科学の歩みところどころ
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第17回
原子は実在するか
森 一夫
児島昌雄
 今日では,原子が実在していることに疑問をいだく人は,ほとんどないといってもよいだろう。ところが19世紀の終りごろに,原子が実在するかどうかをめぐって,激しい論争がくり拡げられた。当時,E.マッハは「原子」と聞くたびに,「あなたは一つでも原子を見たことがあるのですか」と問い返したという。今の生徒なら,何と答えるだろう。そのころの科学者のなかには,返答に窮する者も少なくなかったようだ。では,どのようにしてこの論争に決着がつき,今日のように,目に見えないはずの原子が実在すると確信されるようになったのだろうか。
 
力学的自然観の危機

 ニュートン力学が成立して以来,物理学では粒子の力学的運動によって自然現象を説明しようとする力学的自然観が主流を占めていた。19世紀に入ると,熱がエネルギーの一形態であることがわかり,それに伴ってエネルギー保存則が成立した。さらに1865年には,現象の変化の方向を規定するエントロピー増大の法則が登場した。19世紀に誕生した熱力学は,この2つの法則を基礎にして展開されたが,力学的自然観とはいささか異なる面をもっていた。すなわち,原子という仮想的実体を想定せずに,温度・圧力などの測定可能な量で全体の系を包括的に記述しようとする点である。当時,力学的自然観に立脚した気体分子運動論が低迷していたのを尻目に,熱力学は状態変化・溶液・化学平衡などの分野で着々と成果を積み重ねた。そのために,原子にかわってエネルギー概念が科学者たちの注目を集めた。
 やがて,エネルギー概念を中心にしてあらゆる自然現象を説明しようとする一派が登場してくる。エネルギー論者(Energetiker)と名づけられたその一派は,力学的自然観に対して挑戦状をたたきつけた。その急先鋒は,オストワルド(1853-1932)である。彼は,「科学の任務は仮説的な像を設定することではなくて,現実に測定可能な諸量を関係づけることだ」と主張した。さらに彼はいう。力学の方程式は時間を反転させることが可能であるにもかかわらず,現実には老人が子どもになったり,木が種子に戻ったりはしない。力学的自然観では,こんな簡単なことさえ説明できないではないか。オストワルドは,エネルギー一元論を目ざすあまり,物質や力の概念を用いずにエネルギー概念だけで今までの法則を定式化しようと企てた。
 このようなエネルギー論者の主張は,「知覚することができず,実証もされない原子・分子は,科学から排除すべきだ」と考える哲学者E. マッハの実証主義と結びつき,哲学的にも強固な支持を得て拡がっていった。
 
原子論を死守したボルツマン

 原子論の砦となって,エネルギー論者の攻撃に対抗したのが,ボルツマン(1844-1906)である。気体分子運動論から出発したボルツマンは,時間の不可逆性の問題が,力学的自然観の最大の難問だと痛感していた。彼はまさしく,この問題を解決することに生涯をかけたといってもよいだろう。早くも22歳のときに,「熱理論の第2法則の力学的意義について」という論文で,純粋に力学的にエントロピーを定義しようと試みている。1872年には有名なH定理を提唱し,状態変化が非可逆であることを気体分子の衝突過程にもとづいて数学的に証明した。すなわち,無秩序さの度合を意味するH関数を考えると,非平衡状態にある系では時間がたつにつれて,常にH関数の値が減少する方向に現象が進むというのである。しかも,H関数の符号を変えた値が熱力学のエントロピーに対応すると考えた。
 ところが,力学の可逆性をもとにしていながら,いつの間にか非可逆性を導いているこの証明を,数学的手品のごとく感じる人も少なくなかった。そこでロシュミットは,つぎのような鋭い反論をあびせた。系が平衡状態に達したときに各分子の速度をいっせいに反転させるとすれば,たちまち非平衡状態に逆戻りするではないか。この批判は,ボルツマンに理論の再検討を迫った。やがて彼は,この問題を解く鍵が確率的解釈にあることに気づく。今まで決定的と思われていた現象は,実は確率が極めて高いことを意味するにすぎなかったのだ。ボルツマンは,決定論的・因果的な力学的自然観の殻を打ち破り,非決定論的・確率的な力学的自然観を提出して,ようやく原子論の危機を切り抜けたのである。しかも,彼の一連の研究は統計力学の成立となって実を結んだ。
 ところが,ボルツマンが原子論の正当性を懸命に主張したにもかかわらず,エネルギー論者の攻撃は止まなかった。いかにボルツマンでも,原子が実在することを彼らに認めさせるのは容易でなかったようだ。
 一方,こうした論争とはおかまいなく,19世紀末には電子や放射線が発見され,原子の実在はしだいに確実なものとなっていく。
 ところで少し前ではあるが,筆者らは大学生たちに,核分裂におけるエネルギーと質量との関係を尋ねたところ,物質が消滅してエネルギーに転換すると考えている大学生が多いことに驚いた。彼らは,物質がなくてもエネルギーが存在すると考える点では,19世紀のエネルギー論者と同様の誤りを犯しているのではなかろうか。
 
分子が実在する証拠
―ブラウン運動―

 20世紀に入って,ブラウン運動の研究が,原子が実在することを証明する決め手となった。ブラウン運動は,植物学者ブラウン(1773-1858)が,1827年に顕微鏡で花粉が受精する様子を観察中に発見した現象である。翌年,この現象を「植物の花粉に含まれている微粒子について,…」という論文にまとめて公表した。ブラウン運動を説明している本のなかには,「ブラウンは花粉が不規則な運動をすることを発見した」とあるが,それは全くの誤りで,花粉はそのような運動をしない。花粉に含まれているでん粉粒などの微粒子が花粉から出てきて不規則に動くのが,ブラウン運動である。いろいろな物質を細かい粒子に砕いて顕微鏡で観察したブラウンは,有機物のみならず岩石のような無機物でも,この種の運動が生じることを見つけた。面白いことに彼は,スフィンクスの破片までも調べている。
 この発見から80年近くたって,アインシュタイン(1879-1955)は,媒質分子の熱運動によってブラウン運動が生じることを統計力学を駆使して理論的に証明し,その運動の数式化を図った。分子の熱運動の説明だと,こうなるだろう。媒質に浮かぶ微粒子は各瞬間ごとに非常に多くの媒質分子に衝突されているが,その衝突はデタラメに起こるので,ある瞬間に微粒子が受けとる運動量はつり合わない。この不均衡のために,粒子が動くというわけだ。では,彼が導いた方程式は,どのようなものだろうか。ここでは,一つだけを紹介するとしよう。多くの粒子の変位の平均をとれば,その値は時間や温度の平方根に比例し,粘性や粒子の半径の平方根に反比例するというのが,彼の導いた方程式である。この結果は,分子の衝突は不規則なために,ある時間に粒子が移動する距離(変位)の分布が,偶然誤差の分布と同じになることを示している。
 
ペランの実験

 アインシュタインの方程式をいざ実験で確かめようとすると,技術的な難問が控えていた。大きさのそろった球形粒子を作り,その半径を精密に求めることが困難なのである。だがペランは,黄色の色をしたガンボージ樹脂を水でうすめたのちに遠心分離器にかける方法を考案して,ほぼ同じ大きさの粒子を作ることに成功した(1908年)。さらに彼は,この乳濁液を1滴スライドグラスに落とすと,やがて水が蒸発するにつれて粒子が1列にならぶことなどを利用して,粒子の半径も求めた。つぎに,碁盤状の格子を内蔵した限外顕微鏡でガンボージ粒子のブラウン運動を観察しながら,同一粒子の30秒ごとの位置を方眼紙に写しとったのである(下図)。
ペランが観察したブラウン運動の軌跡
(1目盛は3μm。直線部分も,時間間隔を短くすれば直線にはならない。)


 こうして多くのデータを集めたペランは,平均の変位と,測定時間の平方根との関係を調べてみた。すると,アインシュタインの予言どおり,両者の間にはきれいな比例関係が認められた。しかも,この式の比例定数を使ってアボガドロ数を算出すると,今まで別の方法で得られていた値ともぴったり一致したのである。
 最後まで原子論に反対していたオストワルドも,こうした事実を突きつけられて,ついに分子の存在を認め,原子論者とエネルギー論者との論争は終止符が打たれた。