科学の歩みところどころ
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第16回
化石とは何か
鈴木善次
 
「化石」という言葉

 「化石」と言う言葉を『広辞苑』で調べてみると“(fossil)地質時代に棲息した動植物の遺骸,または,その跡が堆積岩などの中に残されているもの”と書かれている。これは私たちが一応承知している定義であるが,この文頭にある英語のfossilをオクスフォード辞典で調べてみると必ずしも上記のような意味ばかりでなく,“obtained by digging; found buried in the earth”というような意味もあり,広く地中から掘り出されたものを指す言葉であることが知られる。
 もともと fossil の語源はラテン語の fossio (掘ること)とか,fossilis(掘り出された,発掘された)であり,古くは上記のような広い意味で使われていた。例えば,16世紀のドイツの鉱物学者アグリコラ(Georg Agricola,1494〜1555)はfossilを分類しているが,アンモナイトや矢石のほか岩塩,大理石,石灰岩などもその中に含めて扱っている。同様な例はアグリコラよりいくらか後のドイツのゲスナー(Conrad Gesner,1516〜1565)にも見られ,fossil の中に黄鉄鉱や石斧まで含めている。
 これに対して日本語の「化石」では上記のような広い扱いは見られていない。もともと「化石」という言葉は中国から導入されたものと思われるが,江戸時代の小野蘭山(1729〜1810)の書いた『本草綱目啓蒙』(1803)の中で石蝦,石蛇,石魚などの記述があり,その文中で「化石」という言葉が用いられている。
 この『本草綱目啓蒙』の基になった中国明代の李時珍(1518〜1593)の著した『本草綱目』(1596)にも石蛇,石燕,石蟹などの記述があり,すでに「化石」という言葉が使われているという。その字の示すごとく,“石に変化したもの”という意味のみが考えられる言葉であり,ヨーロッパの人たちが化石に対して与えた言葉とは対照的であるのが興味深い。その背景にはヨーロッパ人と中国人における化石に対する認識の相違が存在するように思われる。
 
「化石」の成因

 では,化石とは一体何なのであろうか。どのようにして生じたものであろうか。その点についての人類の認識の変遷をたどってみよう。
 人類が化石の存在に気づき始めたのがいつごろであるかを知ることは出来ない。しかし,文献の上ではすでにギリシャ時代のものに化石の記事が見出されており,それが生物に由来するものである,と考えられていたようである(ダンネマン『大自然科学史』2巻,三省堂,1947年による。本書は全12巻で新版は1977年から1979年にかけて出版されている)。一方,中国でも3世紀ごろの文献に,松の木の化石のことが記載されており,早くから化石の存在が知られている。5世紀の道元著『水経注』にはツバメのように見える石のカキの一種が石燕山にあるという記述があるという(ニーダム『中国の科学と文明』第6巻「地の科学」思索社,1976年による。本書は全11巻)。
 さて,問題はその化石の成因である。中国では,その後8世紀ごろにも化石について論じた文献があるようだが,12世紀の朱熹による『朱子全書』でかなりはっきりと化石の生物起源説が述べられている。“私は高い山において,しばしば岩に埋もれたスイショウガイやカキの殻を見たことがある。古代にはこれらの岩は土や泥であり,スイショウガイやカキは水中に住んでいた”と。(ニーダムによる)。
 ところがヨーロッパでは,中世になって化石が地中に存在する形成力によって作り出されたのだという説が登場する。ときには星や宇宙からくる神秘な力が作用して化石が生まれるのだとも言われた。この考えは18世紀にも影響をもっていて,有名なベリンガー事件を引き起こす。すなわち,上記の考えを支持していたベリンガー(Johann B. A. Beringer, 1667〜1740)は自説を証明するために,化石の発掘を続けるが,自分の名前が刻まれた化石を掘り当て,それまで掘り出された化石が人工物であり,いたずらされたものであることを知る事件である。
 一方で,ヨーロッパでもすでに16世紀には何人かの人たちが化石の生物起源を認めていた。例えば,レオナルド・ダ・ビンチ(Leonard da Vinci,1452〜1519)は高山に見られるカキの化石などを観察して,それらがかつて海中に生息していたものであることをノートに書き残している。また,フランスのパリッシイ(Bernard Palissy,1510〜90)も同様に1580年に貝化石がかつて海中に生息していたものであると述べている。このほか,アレッサンドリ(Alessandro degli Alessandri,1520年に提唱)やフラカストロ(Girolamo Fracastoro,1517年に提唱)なども同様に化石の生物起源説をとっていたが,全体から見れば少数派に属しており,多くの学者たちは自然の戯れとか,地中の形成力による非生物起源のものという考えを抱いていた。前項で紹介したアグリコラも部分的には生物起源の化石を揚げているが,一方で未だ形成力のようなものも信じていたと言われる。
 17世紀になると,化石の生物起源説は力を持つようになる。これは科学全体の神学思想からの脱却も影響していると言えよう。また,ヨーロッパの鉱山業も盛んになり,地質学上の知見,化石に関する資料の集積がより的確な考えを生み出すことを可能にさせたものと考えられる。例えば,ライプニッツ(G.W. Leibniz,1646〜1716)は魚類の化石が一ヶ所に多く見出されたことから,それが偶然の戯れで出来たのでなく,湖水などが埋まって,そこに生息していた魚たちが埋められ,化石となったのであろうと推測したし,「細胞」の研究で有名なロバート・フック(Robert Hooke,1635〜1703)も化石と活木との構造を顕微鏡で比べてみて,そこから化石が生物起源であることを有名な『ミクログラフィア』(1665年)の中で認めているし,化石の研究によって地球の歴史を解くことが出来るとも述べているという(『地震に関する論文』1705年)。
 こうして18世紀に至るまで先のベリンガー事件のようなものを除いて,ほぼ化石の生物起源説は定着するようになる。
 
「化石」は進化の証拠

 化石が生物起源であるとすると,何故に海に住む貝の化石が山頂から発掘されることがあるのだろうか。こうした疑問とともに人々は地表が変化しうることを認めるようになり,その要因をさぐることに関心を向けた。
 近代的地質学の創始者といわれたドイツのヴェルナー(Abraham Gottlob Werner,1750〜1817)は地球上の岩石はすべて水中での堆積作用によって出来たものであるという考えを提唱した。これは一般に水成説(『テリアメド』1755年)と呼ばれているものであり,多くの支持者を生み出した。
 これに対して,イギリスのハットン(James Hutton,1726〜1797)は不整合の地層を発見し,ヴェルナーのようにすべて水の働きによる堆積のみで岩石が出来るのでなく,地球内部にある高熱の作用でも岩石が作られ,それらによって堆積した地層に変化を与えうるのであることを主張した(いわゆる火成説。『地球の理論』T・Uを1795年,Vを1899年に出版)。この論争は最終的にはハットン側の勝利に終わり,19世紀を迎える。
 19世紀になって,地質学にとっても化石の問題にとっても重要な発見がなされている。それはスミス(William Smith,1769〜1839)による“地層同定の法則”の発見(1817年)である(『生物化石によって同定された地層』1816年出版)。彼はその二年前の1815年に最初の色つき地質図を完成させているが,各地の地層を観察しているうちに,一定の地層には,それぞれ特徴のある化石が含まれていることを見出し,この化石を手がかりにその地層の年代を決めることが可能であるとした。これは今日の標準化石の考えへと繋がる。
 また,スミスはこの観察を通じて,古い地層にいくに従って現存の生物と異なった形態の生物化石が見出されることに気づいていたようである。
 いっぽう,こうした地質学上の新知見を神学思想と結びつけようとする動きも見られていた。18世紀以来続いていた生物種の不変説を信じる人たちはノアの洪水の伝説をも利用して化石はそのような地表の大激変により滅びた生物の遺骸であるという説を展開する。その代表者は著名なキュヴィエ(Georges Cuvier,1769〜1832)である。キュヴィエ自身は優れた比較解剖学者であり,化石の研究者であった。特に1812年の『脊椎動物化石骨の研究』は有名であり,これらの研究から絶滅種化石の存在を認めたキュヴィエは,上記のような天変地異説を提唱する。ただ,彼自身は,天変地異のたびに新しい生物が創造されたと言ってはおらず,彼の弟子たちが拡張解釈したようである。
 絶滅種化石の存在を別の角度から捉えたのはラマルク(J.B.Lamarck,1744〜1829)であった。彼の場合にはキュヴィエのように生物種の急激な交代として考えずに,ゆるやかな変化としてみている。言い換えれば,生物の進化の考えを証拠だてるものとして化石を位置づけている。ここにキュヴィエとラマルクの宿命的対立が生じることになる。
 その後,スミスの地質学を発展させたライエル(Charles Lyell,1797〜1875)の著書『地質学原理』(三巻,1830〜3)に刺激されたチャールズ・ダーウイン(Charles Darwin,1809〜1882)がビーグル号航海などで得た知見を基に進化論を展開し,その際にも化石をその証拠として取り上げたことは有名であるが,皮肉なことに,ライエル自身は上記の著作第一巻でラマルクの進化論を否定していたのである。如何に種の不変という考えが人々の心に深く宿していたかがわかるであろう。もちろん,ライエルはその後,ダーウインの進化論が一般の支持を得るに及んで自分の考えを訂正している。
 なお,化石の研究は主として古生物学の分野で進められているが,この古生物学では生物の進化が一定の方向に向かっているという定向進化説(オルソジェネシス)が有力であった。その中でもウマの進化を研究したコープ(Edward Drinker Cope,1840〜1897)の研究が有名である。一時,この考えは否定的であったが,最近ではダーウインの自然選択説への批判に伴って再び注目されているようである。

 なお,今回の内容に関しては本文内に示したもののほか,次の著書を参考にした。機会があったらご覧いただきたい。

●ルドウィック(M.J.S.Rudwick)著,大森昌衛・高安克己訳『化石の意味(The Meaning of Fossils:Episodes in the History of Palaeontology,1976年)』(1981年,海鳴社)。
●G.ゴオー著,菅谷暁訳『地質学の歴史』(1997年,みすず書房)。
●清水大吉郎著『古典にみる地学の歴史』(1996年,東海大学出版)の中の「古典に見る東洋の古生物観」の章。