科学の歩みところどころ
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第13回
電子の発見
森 一夫
児島昌雄
 電子レンジ,電子ソロバン,電子ライターなど,私たちの身の回りには“電子”ということばが氾濫している。このことばは,ギリシア語の琥珀(elektron)に由来しているが,1891年,ストーニーによって初めて使われたときには,自然界に存在する可能性のある“最小の電荷(電気素量)”を意味していた。今回は,ストーニーの“電子”が,どのような過程を経て素粒子として認められたのかを,その直接の契機となった陰極線の研究に的をあてて,しらべることにしよう。
 
陰極線の発見

1860年代以降、陰極線の研究に
使われた水銀ポンプ
 18世紀に入ると,美しい紫色を呈する真空放電の現象が人びとの注目を集めた。やがて18世紀も半ばを過ぎたころ,ガイスラーは水銀ポンプとガラス管を改良して,この紫色が縞状に光る程度の真空度を得ることに成功した。この装置を用いたプリッカーは,真空度を上げていくと,陰極に近いガラス壁が緑色の蛍光を発することに気づいた(1858年)。ヒットルフ(1824〜1914)は,この蛍光を発するガラス壁と陰極との間に物体を置くと物体の影が生じることを観察し,陰極から出ている放射線が蛍光の原因だと考えた(1869年)。そこで,この放射線はゴルドシュタインによって“陰極線”と名づけられた。
 
陰極線は粒子か波動か?

 陰極線の正体とは,いったい何なのだろうか。荷電粒子なのか,はたまた波動なのか。当時の科学者たちは,この問題をめぐって論争を続けた。荷電粒子説を唱えた代表的人物としては,クルックス(1832〜1919)があげられよう。陰極線がガラス管に入れた羽根車を回転させることを発見した彼は,当時盛んだった気体分子運動論に立脚して,陰極で負電荷を受け取った気体分子が陰極線だと主張した。もっとも,この分子が普通の気体分子といささか違う点は認めていたとみえて,“物質の第4状態”という表現を用いている。
 一方,波動説をとる立場の科学者たちは,“エーテル”の振動が陰極線だと考えた。“エーテル”とは,光を伝える媒質として17世紀に導入されたが,当時は電磁気作用をも伝えるとみなされた。波動論者は,静電場をかけても陰極線は曲らないというヘルツの実験や,金属の薄膜を陰極線が通ることを示したレーナルトの実験を自説の根拠としていた。また,ファラデーやマックスウェルの唱えた“場”の理論が,理論的に波動説を支持すると考える科学者も少なくなかった。
 ところでX線は,ヘルツやレーナルトの実験を追試中にたまたま放電管の近くの蛍光物質が光ることに注目したレントゲンが発見したものである(1895年)。この発見は陰極線の研究に拍車をかけ,数年後,周知のように2説の論争は荷電粒子説に凱歌があがった。このときに中心となって活躍した人物が,J・J・トムソン(1856〜1940)である。では,どのようにして彼は,陰極線の正体が荷電粒子であることを明らかにしたのだろうか。
 
陰極線の比電荷がわかる

 トムソンは,波動説の根拠の1つであるレーナルトの実験を,何とか粒子説で説明づけようと考えた。陰極線を原子大の粒子とみなす限り,粒子説で説明しにくいのは確かである。そこで彼は大胆にも,陰極線の正体は原子よりずっと小さな荷電粒子だと,いままでだれも思いつかなかった仮説を設定した。
 この仮説を検証するためには,まず陰極線が荷電粒子であることをはっきりさせておかねばならない。というのも,「荷電粒子と陰極線関係は,ライフルを発射したときの弾丸と光との関係のようなものだ」と反論する科学者もいたからだ。トムソンは,磁石で曲げた陰極線を検電器に導いても確かに負電荷が検出されることを示して,荷電粒子そのものが陰極線にほかならないと主張した。
 もう1つ,彼の頭を悩ませたのが,先述のヘルツの実験である。荷電粒子ならば,当然,静電場の影響を受けるはずだ。この点に関して,彼はつぎのような解釈を試みた。つまり,陰極線によって気体分子が電離されると,電極付近にはその反対荷電をもつイオンが集まる。そのため電気的に中和されて実際は電場が存在しないことになる,というわけだ。さっそく,気体分子を少なくするために真空度をあげて実験したトムソンは,わずか2Vの静電場で陰極線を曲げることに成功した。ただしこの成功の影には,電球づくりのためにエジソンらの改良した真空技術があったことを見落としてはなるまい。ちなみにエジソンは,京都の竹がフィラメントの材料に適していることを知って,その竹を使った電球(右)を1881年の電気博覧会に出品している。
 こうしてトムソンは,陰極線が荷電粒子であることを明らかにしたものの,この粒子が原子に比べて小さいという点に関しては,決め手を欠いていた。そこで,陰極線粒子の質量を測定するのが困難な以上,まず比電荷(質量/電荷)を測定しようと試みた。荷電粒子に磁場をかけたときの粒子の運動からmv/e(vは粒子の速度)の値が得られた。つぎにvを求めなければならないが,彼は2つの方法でそれを得ている。静電場をかけて陰極線を偏向させる方法は高校の物理でもおなじみなので,ここではもう1つの方法を紹介しよう。陰極線を固体に衝突させたときに発生する固体の温度上昇と,陰極線の総電荷量とからvを求めるやり方である。すなわち,各粒子の運動エネルギーがすべて温度上昇に結びつくと仮定すれば,固体の熱容量を用いて,全粒子の運動エネルギー( Nmv2)が求められる。総電荷量は,粒子数と電荷との積(Ne)だから,両者の比をとってmv2/eがわかる。この値をmv/eで割ってvを算出するという巧妙な方法である。
 得られた比電荷は,予想どおり水素イオンの比電荷のわずか千分の一であり,しかも放電管の気体や極板の種類には無関係だった。トムソンは,陰極線の本性である荷電粒子こそ,すべての物質原子に含まれているという確信を得て,この粒子を“微粒子(orpuscle)“と呼ぶことにした。だが,この結果から“微粒子”が原子より小さいと,即断はできない。水素イオンと“微粒子”の電荷が同じくらいかどうか,わからないからだ。そこで,トムソンが“微粒子”の電荷の測定へと向かうのは,いわば当然の成りゆきといえよう。
(※彼の求めた“比電荷”は,いまでいう比電荷の逆数である)
 
原子よりも小さい粒子

 陰極線粒子の電荷は測定するのがむずかしいために,トムソンは金属板に紫外線を照射したときにとび出す荷電粒子を陰極線粒子の代用として使った。比電荷が等しいこの2種類の粒子は,どちらも同じ粒子にちがいないと彼は信じていた。では,この粒子の電荷をどのようにして求めればよいのだろうか。
 彼は,過飽和水蒸気の入った容器に荷電粒子をあてたのちに水蒸気を急激に膨張させると,イオンが核となって霧が生じる現象(ウィルソンの霧箱)を利用することにした。この膨張比から霧の全粒子の重量がわかる。粒子1個の重量は,自由落下する速さにストークスの法則を適用して求めた。このとき,1つの霧粒子には1つの荷電粒子が付着していると仮定すれば,全荷電粒子数が算出できる。また霧の総電荷量は,霧に電圧をかけたときに流れる電流を利用している。
 こうして得られた電荷は,水素イオンの電荷と同じオーダーであった。その値と比電荷の値とから,陰極線粒子の質量は,水素イオンよりもずっと小さいことがわかった。このようなすばらしい発見をしたトムソンは,1899年,「原子よりも小さな質量をもつものの存在」というタイトルで講演を行って,確信に満ちた口調で「原子は多数の“微粒子”から成っている」と言明している。
 翌年,最小の電荷と考えられていた水素イオンの電荷と,陰極線粒子の電荷の等しいことが示された。ここに至って,かつて電気素量という意味をこめたストーニーの造語である“電子”が復活して,トムソンの“微粒子”は電子と呼ばれるようになった。
 ヨーロッパで発見された電子は,さっそく日本にも紹介された。明治38年(1905年)に近藤耕蔵の著した『電気学講義』では,陰極線は電気を帯びた“極微物体(電素)”だと結論が下されている。
 20世紀に入ると,電子の電荷や質量の精密測定,そして原子の構造の研究が進んだ。その過程で現れた質量の速度依存性は相対性理論を,また電子が粒子性と波動性とを示すという矛盾は量子力学を発展させたのである。