科学の歩みところどころ
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第3回
熱とは何か
森 一夫
児島昌雄
 “熱”ということばは,私たちにとってなじみ深い日常用語である.しかし,「熱とはいったい何なのだろうか」と改まって尋ねると,正確に答えられる人はあまり多くないようだ.今回は,この熱の本質が明らかにされてきた過程をみていくことにしよう.
 
熱の運動説と物質説の登場

ニューコメンの蒸気機関
 熱の本質を科学的に説明しようとする試みは,17世紀に始まる.このころは,粒子論的自然観を背景にして,ニュートン力学的な自然観がまさに花開こうとしていたときであった.粒子論者のボイル(1627−91),フック(1635−1703),それにデカルト(1596−1650)もまた,物体を構成している微粒子の振動こそ熱にほかならない,と考えていた.「手をこすると暖かくなるのは,手をつくっている微粒子が運動するからだ」というデカルトの主張は,この時代思潮の代表といえよう.しかし,当時は思弁的色彩が強く,実験的根拠にも欠けていた.
 17世紀から18世紀にかけて,ヨーロッパでは産業が活発となり,工業はめざましい勢いで発展していた.なかでも,製鉄業を始めとする金属工業やガラス工業など火を使う工業では,生産が拡大するにつれて燃料の石炭の需要が激増してきた.その需要に応えるため,炭坑では“火で水をくみ上げる”ニューコメンの蒸気機関が大活躍していた.
 こうした熱を利用する工業や技術の発展とあいまって,熱に関する科学的研究も本格化してくる.このころ,新興勢力として登場した化学者のなかから,熱を物質とみる考えが生まれてきた。変化する現象にもかかわらず恒常的な実体的物質を想定するのが得意な彼らは,熱現象の担い手は熱の粒子だと主張したのである.もっとも彼らは,初めのうちは温度と熱の区別が曖昧で,温度は熱の粒子の量を示しているにすぎないと考えていた.
 
熱と温度の区別

 熱と温度の違いをはっきりさせて,熱学の基礎を築いたのは,ブラック(1728−99)である.彼よりも少し前に,ファーレンハイト(1686−1736)が正確な温度計を作っていた.ちなみにわが国では,1768年平賀源内がオランダ製品をまねて初めて和製温度計を製作して,寒熱昇降器と名づけている.
 ブラックは以前,天秤を用いる定量分析的手法で“固定空気”(二酸化炭素)を発見していた.彼はこの定量的手法を熱学にもちこもうとした.「温度の異なる同質量の水と水銀をまぜても,初めの温度の中央値を示さない」という報告をみたブラックは,さっそく温度計を使って,もっと精密に実験をやり直してみた.彼はその事実を,水と水銀では“保有しうる熱の量”(熱容量)が違うと考えると説明がつく,と主張した.つまり,出入りした熱の量=熱容量×温度変化という関係で熱の移動を説明しようとするのである.
 さらにブラックは,今でいう潜熱の現象こそ,熱と温度の違いを説明するものだと考えた.実は,彼の住むグラスゴーではウイスキー産業が盛んであり,蒸留の過程で生じる潜熱の現象はよく知られていた.彼はまず,氷と,これと等しい質量の0℃の水を大きな部屋に放置してみた.すると,水は30分で4度上昇したが,氷は融けきるのに10時間もかかり,そのあいだ温度は上昇しなかった.氷に与えられた熱はいったいどこに消えたのだろうか.ブラックは,この熱が失われたのではなく,水の中にかくされていると考えて,“潜熱”と名づけた.熱を物質と考えるブラックにすれば,熱は移動することはあっても消滅するはずはないと思ったのだろう.今日でも使われている“熱容量”とか“潜熱”ということばは,熱を物質と考えていた時代の名残りを示している.なお,有名なワットはブラックから潜熱の考えを聞いたため,ニューコメンの蒸気機関を改良するヒントをつかんだのである.
 ブラックのおかげで,熱物質説は多くの支持者を得ることができ,やがてラボアジェ(1743−94)の手でさらに洗練されたものに仕上げられていく.ラボアジェは,熱粒子を“熱素(カロリック)”と命名し,酸素や水素など他の32の元素とともに,元素の一つと考えた.この頃になると,加熱前後で物体の質量を測定しても変わらないことから,熱素は重さのないことがわかっていた.さらに,熱素は物質である以上,他の原子と同様不生不滅であり,保存されるという考えが行きわたった.
 
摩擦熱の実験

 熱の物質説を主張するのは主に化学者であったが,18世紀でも一部の物理学者は熱を物体微粒子の運動と考えていた.やがて,熱の運動説を初めて実験的に立証しようとする人が登場する.その人はラムフォード(1753−1814)である.
 彼はミュンヘンの兵器工場で大砲の中ぐり作業を監督しているとき,砲身が短時間で非常に熱くなるのに驚いた.以前から熱素説に疑問をいだいていたラムフォードは,この現象を実験に移し,鈍い穴あけ器を金属円筒に押しつけて,その円筒を馬の力で回転させた.すると,大量の熱が発生するではないか.空気から熱素が与えられたからだという熱素論者の反論に対して,円筒を水につけても熱は発生し,水が沸騰することを示して,次のように熱素論者は反駁した.「運動が続く限り,この熱は枯渇しない.孤立した系が際限なく供給できるものは物質ではなく,運動と考えるほかない」と.ちなみにラムフォードは,熱心な熱素論者であり断頭台の露と消えたラボアジェの未亡人と結婚したことをつけ加えておこう.
 彼の実験は大きな反響をよんだが,支持者はデービーとヤングのわずか二人だけであった.というのも,熱の運動説は摩擦以外の現象にはそれほどうまく適用できるとは思えなかったし,何よりも定量的扱いを欠いていたためである.そこで,熱と力学的仕事との関係を定量的にとらえ,熱量が保存しないことを明らかにする方向に目が向けられていく.
 
熱とエネルギーの関係

ジュールの実験装置
(この装置を強い磁石の間に置く)
 こうした状況で,エネルギー保存則が発見されるのは,もはや時間の問題であった.事実それは,ジュール(1818−89),マイヤー(1814−78),それにヘルムホルツ(1821−94)たちの手によって別べつに発見された.
 ジュールは,当時発明されたエンジン(電池で動かすモーター)が蒸気機関にとって代わるのではないかと期待して,その効率の改善を研究していた.彼はエンジンが動いているとき,導線に熱が発生するのに気づいた.しかし彼はまだ,電池の化学反応によって熱素が表面化したために熱が発生したのだと思っていた.ところが,磁場の中でコイルを回転しただけで,熱が発生するのではないか.すると,コイルを動かす力学的仕事以外に,熱の原因は見あたらない.熱は物質ではなく運動によって発生するのだから,熱と力学的仕事とは等価だ,と彼は結論を下したのである.そこで彼は,分銅の力で水を攪拌するあの有名な実験などから,熱の仕事当量を求めた.
 一方マイヤーは,自然界の諸作用は宇宙の根源的な力によるという当時の自然哲学に心酔していたため,思弁的にエネルギー保存則に達した.彼にはこんなエピソードが残っている.彼の数少ない理解者の一人,ヨリー教授は「もし君の考えが正しいならば,水をかきまぜただけで,水を温めることができるのではないか」と尋ねてみた.このときマイヤーは何も答えなかったが,数週間たってからヨリーの所にとんできて,こう叫んだ.「先生.そうです!その通りなのです」.マイヤーは,フラスコに水を入れ,これを一生懸命かきまぜると,水温が上昇することを確かめたのである.
 力学的仕事と熱の等価性が示されると,以前から知られていた力学的エネルギー保存則は,エネルギー保存則へと拡張されていく.やがてケルビン(1824−1907)は,原子・分子の運動エネルギーと位置エネルギーの和を内部エネルギーと定義して,エネルギー保存則をつぎのように定式化する.「系の状態変化に伴う内部エネルギーの差は,外部から加えられた仕事と熱量の和に等しい」.ここにいたって,「熱とは何か」という長年のなぞにもようやく終止符が打たれた.熱は,物体から物体へ移動する内部エネルギーの形態の1つだったのである.
 その後,熱の運動説は分子運動論から統計力学へと発展していく.また熱輻射の現象が契機となって,エネルギーは離散量(エネルギー量子)であることが示され,今日にいたっている.この説は他日に譲ろう.